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エリア:
- ヨーロッパ > イタリア
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テーマ:
- ビーチ・島
- / 歴史・文化・芸術
きゅっと引き締まったのその青年の尻は、柔らかい布を通してもありありと見えてくる。なるほど、女性に人気があるはずである。
鼻が欠けてはいるがその自信に満ちた微笑は隠しようがない。
腕も両方欠けているが、腰に当てた残った指先からだけでも得意げな様子が伝わってくる。足先は見えていなくても、誰かに向けてポーズを取った瞬間であるかと思える。
この像は1979年に発見された。
今では一面の草原となったモツィア島は、紀元前八世紀ごろからカルタゴ人が街をつくっており、その邸宅を飾っていたものかもしれない。
発掘したのはウィットカー財団。シチリアで育った英国人ジョゼッペ・ウィットカー氏の業績を継いでいる。
ウィトカー一族は西ヨークシャーの名家で、1806年に多くがシチリアへ移住し、マルサラ酒をつくるための広大な畑を持っていた。ジョゼッペ(英語名ならジョセフ)も少年時代からパレルモで育ったので、イギリス人でありながらシチリアを故郷と感じていたことだろう。
鳥類研究者としての方が有名なようだが、晩年古代史への夢に魅かれてモツィア島を丸ごと買いとった。一時間ほどで一周できてしまうこの小さな島を所有していたのは、たった六人の農夫だったのだ。
***
モツィア島はヴェネチアのように浅瀬に囲まれた自然の要塞である。
この写真の上部に伸びた島の北部からシチリア本島までのびる一キロ半の道。海の中に伸びたこの道はカルタゴ時代の紀元前6世紀ごろにつくられたとされる。※現在は水没して使用は出来ない
島へはこんな船で十分ほど。
船内でウィトカー氏のマルサラ酒をふるまってくれたりする。
島へ到着するとすぐに旧ウィットカー邸・現博物館。
そこに冒頭の「モツィアの青年像」も収蔵されている。1979年に発見されたからここに置かれる事になったが、もう少し早ければパレルモかローマあたりに置かれてしまっていたことだろう。あるいは大英博物館だったかもしれない。発見された場所でこの像に出会えるのはシアワセな事。モツィア島は遠いけれど、この青年像の為に行く価値がある。
博物館には、紀元前六世紀といわれるこんな面白い面もある。
もともとアジアからの影響強いフェニキア人、これはなんだか能面の様。
博物館の中で目を引くたくさんのこの墓碑。トフェット(「トフェ」または「トペト」と表記される事が多い)と呼ばれるこの場所からは黒こげの幼児の骨がたくさん見つかった。
カルタゴと敵対したギリシャ人やローマ人が残した記述から、カルタゴ人は幼児を神への生贄にしていたとの伝説がうまれた。19世紀にフランス人小説家フロベールが作品の中でそれを描き、西洋では「事実」として認識されているようだ。
しかし、実際には幼児死亡率の高かった時代に、死亡した子供を埋葬する場所だったという解釈の方が自然ではなかろうか。カルタゴは火葬が一般的だったし、遺跡からは子供の墓が見つかっていない。
**
博物館から歩き出すと、見渡す限りの背の高い草の上に、さらににょきにょきと草の幹が立ち上がり元気な花を咲かせている。この青空の下をこんな風に歩くだけでもはるばるモツィア島へ来た甲斐があるというものである。
港を守っていた城壁の跡が突然あらわれる。
「コトン」と呼ばれる南の港は、先に載せた島の写真でも下のほうに四角く確認する事が出来る。50m×35mのこの小さな港は、深さ約2メートルで底も舗装してある。
浅瀬に囲まれた島には、この港に入る事のできる小船で物資を搬入していたにちがいない。ここは最もカルタゴ時代の雰囲気を感じられる場所だった。
モザイクのある家が残っている。
この写真でもはっきり見える白と黒のモザイクは二階建ての家の中庭を飾っていたと推察される。ちかくに見える盛り土の下にもモザイクがあり、それを保護しているのだそうだ。それにしても、まだまだ島の5%程度しか発掘されていないのだから、これからまだあの「青年像」のような逸品が見つかるかもしれない。
そんな逸品が公開されるようになったなら、また今日のような晴れた春の日にモツィア島を訪れてみたいものである。
鼻が欠けてはいるがその自信に満ちた微笑は隠しようがない。
腕も両方欠けているが、腰に当てた残った指先からだけでも得意げな様子が伝わってくる。足先は見えていなくても、誰かに向けてポーズを取った瞬間であるかと思える。
この像は1979年に発見された。
今では一面の草原となったモツィア島は、紀元前八世紀ごろからカルタゴ人が街をつくっており、その邸宅を飾っていたものかもしれない。
発掘したのはウィットカー財団。シチリアで育った英国人ジョゼッペ・ウィットカー氏の業績を継いでいる。
ウィトカー一族は西ヨークシャーの名家で、1806年に多くがシチリアへ移住し、マルサラ酒をつくるための広大な畑を持っていた。ジョゼッペ(英語名ならジョセフ)も少年時代からパレルモで育ったので、イギリス人でありながらシチリアを故郷と感じていたことだろう。
鳥類研究者としての方が有名なようだが、晩年古代史への夢に魅かれてモツィア島を丸ごと買いとった。一時間ほどで一周できてしまうこの小さな島を所有していたのは、たった六人の農夫だったのだ。
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モツィア島はヴェネチアのように浅瀬に囲まれた自然の要塞である。
この写真の上部に伸びた島の北部からシチリア本島までのびる一キロ半の道。海の中に伸びたこの道はカルタゴ時代の紀元前6世紀ごろにつくられたとされる。※現在は水没して使用は出来ない
島へはこんな船で十分ほど。
船内でウィトカー氏のマルサラ酒をふるまってくれたりする。
島へ到着するとすぐに旧ウィットカー邸・現博物館。
そこに冒頭の「モツィアの青年像」も収蔵されている。1979年に発見されたからここに置かれる事になったが、もう少し早ければパレルモかローマあたりに置かれてしまっていたことだろう。あるいは大英博物館だったかもしれない。発見された場所でこの像に出会えるのはシアワセな事。モツィア島は遠いけれど、この青年像の為に行く価値がある。
博物館には、紀元前六世紀といわれるこんな面白い面もある。
もともとアジアからの影響強いフェニキア人、これはなんだか能面の様。
博物館の中で目を引くたくさんのこの墓碑。トフェット(「トフェ」または「トペト」と表記される事が多い)と呼ばれるこの場所からは黒こげの幼児の骨がたくさん見つかった。
カルタゴと敵対したギリシャ人やローマ人が残した記述から、カルタゴ人は幼児を神への生贄にしていたとの伝説がうまれた。19世紀にフランス人小説家フロベールが作品の中でそれを描き、西洋では「事実」として認識されているようだ。
しかし、実際には幼児死亡率の高かった時代に、死亡した子供を埋葬する場所だったという解釈の方が自然ではなかろうか。カルタゴは火葬が一般的だったし、遺跡からは子供の墓が見つかっていない。
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博物館から歩き出すと、見渡す限りの背の高い草の上に、さらににょきにょきと草の幹が立ち上がり元気な花を咲かせている。この青空の下をこんな風に歩くだけでもはるばるモツィア島へ来た甲斐があるというものである。
港を守っていた城壁の跡が突然あらわれる。
「コトン」と呼ばれる南の港は、先に載せた島の写真でも下のほうに四角く確認する事が出来る。50m×35mのこの小さな港は、深さ約2メートルで底も舗装してある。
浅瀬に囲まれた島には、この港に入る事のできる小船で物資を搬入していたにちがいない。ここは最もカルタゴ時代の雰囲気を感じられる場所だった。
モザイクのある家が残っている。
この写真でもはっきり見える白と黒のモザイクは二階建ての家の中庭を飾っていたと推察される。ちかくに見える盛り土の下にもモザイクがあり、それを保護しているのだそうだ。それにしても、まだまだ島の5%程度しか発掘されていないのだから、これからまだあの「青年像」のような逸品が見つかるかもしれない。
そんな逸品が公開されるようになったなら、また今日のような晴れた春の日にモツィア島を訪れてみたいものである。