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エリア:
- ヨーロッパ > ノルウェー
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テーマ:
- クルーズ
- / 世界遺産
- / 歴史・文化・芸術
ノルウェーのフィヨルドについて、2003年頃にまとめたものを少し新しくして載せます。フィヨルドの美しい景観の中に貧しかった頃のノルウェーの人々の暮らしが見えてきます。
**
海から120キロも内陸の入り江。ソグネフィヨルドを行く船上からは、素晴らしい景色を見ることができる。
「わあ、こんなところに家がある!」
船上アナウンスがはいる「左手の崖の上には、スティーゲン農場が見えます。[スティーゲン]とは、[はしご]という意味ですが、実際にこの農場へ上がっていくためには、はしごが必要でした」
何故こんな不便な所にすき好んで住んでいるのだろう?農場?こんな所にそんな土地があるのだろうか?誰もがそう思う。「きっと、あんなところが好きで、ゆっくりくらしてるんだろうねぇ」という感想も聞えてきた。
いや、実はそんなお気楽な家ではない。これはノルウェー国民がたどってきた、苦難の歴史の置き土産なのだ。
この写真で見ていただきたいのは美しい滝ではない。上方右手に小さく見える家である。ここにはかつて果樹園があった。りんごが取れた。山羊がいた。馬がいた。そしてそれを飼う人がすんでいたのだ。
今は廃屋になっているが、かつての姿を再現したのが下図。
昔、人口の増加を支えきれない零細なノルウェーの農業からは、たくさんの流民がうまれた。そういった人々の出て行った先は、多くはアメリカであった。
スエーデンからの独立前、1850年から1910年までの間に、ノルウェーからアメリカに移住した人の数は69万1821人と統計は語る。現在でも500万人しか人口のない国としては、驚異的な数の人々が祖国を離れたわけだ。
いや、アメリカに行ったのは、定期船の船賃を稼ぐ事が出来る比較的余裕がある農家である。そうでない人々は、いやでも国内で新たに生きる場を求めなくてはならない。
村を出て、工業化で都市生活者になれた人もいただろう。ノルウェーらしく船乗りになった者もあっただろう。
一方で、苦しくとも農業を続ける事を選んだ人もいた。山の多い寒冷なノルウェーで、新たに農業ができる場所を見つけるのは簡単な事ではない。
そこがフィヨルドの奥の崖の上でも、その人は生きるために自分自身の土地がを造り出さねばらななかったのだ。傾斜地にわずかな畑を作り、家畜を飼って、「住めば都」と感じただろうか?
下はゲイランゲルフィヨルドの家
このフィヨルドとベルゲンをつなぐポスト・シップは、なんと1790年に就航。はじめは司教や、数少ない文字の書ける農民の為に、手紙を運んでいた。19世紀末には常駐ではないが、郵便局が開設された。陸路は雪で閉ざされてしまうため、凍らないフィヨルドの郵便船というのは唯一の生命線だったのだ。だから、現在でもこの船には「POST SHIP」と書かれた旗がひるがえっている。
「はしご農場」の暮らしはもちろん楽ではない。子供は傾斜地を海まで転がり落ちてしまう危険があるので、いつも紐をつけて木につないでおいたという。
雪の重みで家が潰されてしまっても、すぐに助けに来てくれる人はいない。自分たちでなんとかしなくてはならない。※この写真は埋まってしまった友人を助けるために雪を掘っている、と説明してあった。
行政はこんなフィヨルドの奥には何もしてくれなかった。それなのに税金だけは徴収しようとする。徴税人がやってくると彼らは「はしご」を外して知らん顔をしたそうである。※下はその様子を再現した人形
こんな暮らしの中でも、いや、こんな暮らしだからこそ、教会には行った。こんな土地で住むからこそ、神に祈る気持ちは人一倍強かったのだろう。
せめて日曜日にはきれいな服で教会に行く。それは厳しい暮らしの中のささやかな喜びだっただろう。教会の近くには、Dalabudaと呼ばれる小屋があった。人々が作業着をを着替える為の場所である。 下はそのひとつを移築したもの。
***
1869年(明治2年)フィヨルドに始めての観光客がやってきた。各国の王室が自分の船でやってくるのである。ドイツ王カイザー・ヴィルヘルム2世、エジプトのプリンスやタイの王までがやってきた。1920年には112隻もの船が観光のためにやってくるようになっていた。
2002年「ノルウェー・フィヨルド博物館」がゲイランゲルのホテル・ユニオンすぐ近くにオープンした。写真引用した展示や移築した小屋はここにある。オープニングにはソニア皇后も出席された。
建築自体も一見に値する。建物のかたちはフィヨルドに向かってなげられた、一本の銛をイメージしている。
ゲイランゲルの地名[GEIR]とは槍の先をあらわす言葉だとか。
下の写真はその後ろの部分。
先端がこれ
前出のフィヨルドの歴史と生活を展示するコーナーと、下の写真のようなギャラリーから出来ている。外の美しい景色が見える、落ち着いた空間である。
8分間で美しいフィヨルドの映像を見られるシアターもある。
★★現在、ノルウェーは充分お金持ちになった。1969年に北海油田が発見され、世界第三位の石油輸出国である。中東の諸国と違い、その富をひとつの階級が独占するような事をせずに、国民の為に大事に管理をしている様に見える。高所得・高税率に高福祉。今のノルウェーは、フィヨルドの断崖を耕して生活するというようなスタイルが、根本的に受け入れられない世界になってしまった。高所得なノルウェー社会に生きる生活を、そんな零細農業では支えていけないのだ。 ガイランゲル・フィヨルドの崖の上にあるかつての農家は、1960年代には次々に放棄されて空家になっていった。今そこは、希な山岳観光客の訪れる場所になっている。
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海から120キロも内陸の入り江。ソグネフィヨルドを行く船上からは、素晴らしい景色を見ることができる。
「わあ、こんなところに家がある!」
船上アナウンスがはいる「左手の崖の上には、スティーゲン農場が見えます。[スティーゲン]とは、[はしご]という意味ですが、実際にこの農場へ上がっていくためには、はしごが必要でした」
何故こんな不便な所にすき好んで住んでいるのだろう?農場?こんな所にそんな土地があるのだろうか?誰もがそう思う。「きっと、あんなところが好きで、ゆっくりくらしてるんだろうねぇ」という感想も聞えてきた。
いや、実はそんなお気楽な家ではない。これはノルウェー国民がたどってきた、苦難の歴史の置き土産なのだ。
この写真で見ていただきたいのは美しい滝ではない。上方右手に小さく見える家である。ここにはかつて果樹園があった。りんごが取れた。山羊がいた。馬がいた。そしてそれを飼う人がすんでいたのだ。
今は廃屋になっているが、かつての姿を再現したのが下図。
昔、人口の増加を支えきれない零細なノルウェーの農業からは、たくさんの流民がうまれた。そういった人々の出て行った先は、多くはアメリカであった。
スエーデンからの独立前、1850年から1910年までの間に、ノルウェーからアメリカに移住した人の数は69万1821人と統計は語る。現在でも500万人しか人口のない国としては、驚異的な数の人々が祖国を離れたわけだ。
いや、アメリカに行ったのは、定期船の船賃を稼ぐ事が出来る比較的余裕がある農家である。そうでない人々は、いやでも国内で新たに生きる場を求めなくてはならない。
村を出て、工業化で都市生活者になれた人もいただろう。ノルウェーらしく船乗りになった者もあっただろう。
一方で、苦しくとも農業を続ける事を選んだ人もいた。山の多い寒冷なノルウェーで、新たに農業ができる場所を見つけるのは簡単な事ではない。
そこがフィヨルドの奥の崖の上でも、その人は生きるために自分自身の土地がを造り出さねばらななかったのだ。傾斜地にわずかな畑を作り、家畜を飼って、「住めば都」と感じただろうか?
下はゲイランゲルフィヨルドの家
このフィヨルドとベルゲンをつなぐポスト・シップは、なんと1790年に就航。はじめは司教や、数少ない文字の書ける農民の為に、手紙を運んでいた。19世紀末には常駐ではないが、郵便局が開設された。陸路は雪で閉ざされてしまうため、凍らないフィヨルドの郵便船というのは唯一の生命線だったのだ。だから、現在でもこの船には「POST SHIP」と書かれた旗がひるがえっている。
「はしご農場」の暮らしはもちろん楽ではない。子供は傾斜地を海まで転がり落ちてしまう危険があるので、いつも紐をつけて木につないでおいたという。
雪の重みで家が潰されてしまっても、すぐに助けに来てくれる人はいない。自分たちでなんとかしなくてはならない。※この写真は埋まってしまった友人を助けるために雪を掘っている、と説明してあった。
行政はこんなフィヨルドの奥には何もしてくれなかった。それなのに税金だけは徴収しようとする。徴税人がやってくると彼らは「はしご」を外して知らん顔をしたそうである。※下はその様子を再現した人形
こんな暮らしの中でも、いや、こんな暮らしだからこそ、教会には行った。こんな土地で住むからこそ、神に祈る気持ちは人一倍強かったのだろう。
せめて日曜日にはきれいな服で教会に行く。それは厳しい暮らしの中のささやかな喜びだっただろう。教会の近くには、Dalabudaと呼ばれる小屋があった。人々が作業着をを着替える為の場所である。 下はそのひとつを移築したもの。
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1869年(明治2年)フィヨルドに始めての観光客がやってきた。各国の王室が自分の船でやってくるのである。ドイツ王カイザー・ヴィルヘルム2世、エジプトのプリンスやタイの王までがやってきた。1920年には112隻もの船が観光のためにやってくるようになっていた。
2002年「ノルウェー・フィヨルド博物館」がゲイランゲルのホテル・ユニオンすぐ近くにオープンした。写真引用した展示や移築した小屋はここにある。オープニングにはソニア皇后も出席された。
建築自体も一見に値する。建物のかたちはフィヨルドに向かってなげられた、一本の銛をイメージしている。
ゲイランゲルの地名[GEIR]とは槍の先をあらわす言葉だとか。
下の写真はその後ろの部分。
先端がこれ
前出のフィヨルドの歴史と生活を展示するコーナーと、下の写真のようなギャラリーから出来ている。外の美しい景色が見える、落ち着いた空間である。
8分間で美しいフィヨルドの映像を見られるシアターもある。
★★現在、ノルウェーは充分お金持ちになった。1969年に北海油田が発見され、世界第三位の石油輸出国である。中東の諸国と違い、その富をひとつの階級が独占するような事をせずに、国民の為に大事に管理をしている様に見える。高所得・高税率に高福祉。今のノルウェーは、フィヨルドの断崖を耕して生活するというようなスタイルが、根本的に受け入れられない世界になってしまった。高所得なノルウェー社会に生きる生活を、そんな零細農業では支えていけないのだ。 ガイランゲル・フィヨルドの崖の上にあるかつての農家は、1960年代には次々に放棄されて空家になっていった。今そこは、希な山岳観光客の訪れる場所になっている。