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エリア:
- 中近東 > トルコ > トラブゾン
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テーマ:
- 観光地
- / その他
- / 歴史・文化・芸術
グルジア国境に近い黒海に面したトラブゾンの街から一時間ほど山の中へ入ると、岸壁にはりついたようなスメラ修道院がある。
伝説によると、アテネで元異教の神殿にあった「聖ルカが画いた聖母マリアの肖像画(イコン)」が、AD385年にアテネから飛んできた。
聖ソフロニオスと聖バルナバは、ぞれぞれ別の場所で大天使ガブリエルが夢枕に現れ、導かれて旅をし、この岸壁にの洞窟にそのイコンがあるのを発見した。
二人がそこに住んだのが、この修道院の縁起である。
かつては七十室以上あったという修道院の中心が、この場所。
ここは自然の洞窟をふさいだ構造。
天井に巨大なマリアとキリストが画かれている
このマリアの顔が黒い事がスメラ修道院の語源と言われることもある。ギリシャ語で黒は「メラス」だから。
●別の語源説
この修道院のフルネームは「Panaghia tou melas、パナギア・トゥ・メラス」=黒い岩の聖母という。「t」を発音しにくかった住民が「s」の音になり、スメラとなった。
修道院の入り口から見たところ。20世紀までは屋根があった。写真も残されている。
●東ローマ帝国時代(後世ビザンチン帝国と呼ばれるようになる)。
皇帝はもちろんこの修道院を尊ぶ。イスタンブルの現アヤソフィアを建設したユスティニアヌス大帝の時代、配下の司令官だったベリサリウス(イタリアはラヴェンナに彼の肖像画モザイクが残る)が改築、鹿皮の写本多数が寄贈された。
1204年の第四十字軍によるラテン帝国成立により、亡命した東ローマ帝国コムネノス朝が、グルジアの後押しによりトレビゾンド王国を建設。アレクシウス三世などはこのスメラ修道院で戴冠式を挙行した。
●オスマントルコ時代
1453年にコンスタンチノープルが陥落した後、1461年にトレビゾンド王国も滅亡。イスラム教のオスマン・トルコが支配者となったが、修道院は変わらず信仰を集めていた。
トラブゾンにはたくさんのギリシャ正教を信仰する住民が暮らしており、オスマントルコはそれを迫害はしなかった。
皇太子時代にトラブゾンの知事で後にヤウズ・スルタンと呼ばれることになるセリムは、狩の時(?)具合が悪くなり修道院で手当てを受けた。「私がスルタンになったら、ここの聖母マリアに贈り物をしよう」と言った。
1512年にスルタンとなったセリムは、彼と同じ背丈の黄金の燭台五本を奉納した。イランを征服した時にはシャーの宝物からやはり燭台二本を贈っている。
1710年、1732年、1740年、修道院拡張。1860年には当時のスルタン・アブドゥルメジットの命により最大の大きさになり三十人の修道士が住んでいた。同じ清教徒であるロシアのツァーも訪れた事がある。
何度も装飾しなおされているため、フレスコ画も上塗りされた。この部分をみると、それがよくわかるだろう。
古いフレスコ画の表面がでこぼこになるように傷を付け、そのうえに漆喰を塗ったのだ。
なので、場所によりさまざまな時代のフレスコ画が入り混じっている。この旧約聖書の「鯨に飲み込まれたヨナ」はわりに新しい時代に見える。
ライオンに食べられて殉教したとされる紀元後一世紀の聖イグナチウス
なんとも表現がおもしろい。15世紀頃か?
落書きもたくさんある。ギリシャ語のもので1803と書かれているものがあったが、本当にその時代のものなのだろうか?
大天使ガブリエル
19世紀に暖炉がたくさんつくられたそうだが、これもその跡
★このように、オスマン・トルコの時代に入っても、修道院は庇護され無事に活動していた。破壊された教会を見て、すぐに「イスラム教徒が破壊した」と思い込むのは早計だ。
第一大戦でトルコが敗れると数年の間ロシアがこの地域を占領していた。彼らもまた正教徒であり、この修道院を破壊はしなかった。
1919年から後のアタチュルクが新制トルコへの革命をスタート。地中海に面したイズミール周辺から、イギリスに後押しされたギリシャが侵攻。1922年までトルコ国内で激しい戦争が続く。
イギリスは、ギリシャ系住民の多かったこのトラブゾン周辺を「ギリシャ・ポントス共和国」としてトルコから切り離そうとしたが失敗。ギリシャ⇔トルコ間の住民交換の時代、三万人以上のギリシャ系住民が街を離れていった。
スメラ修道院が本当の危機に陥ったのはこの時である。何百年ものあいだイスラムの支配者の元であっても、ギリシャ系住民が住み続けている間は問題なかった。一般住民がいなくなった時、本当の危機が訪れた。
1923年8月末、修道士たちはもっとも大事な「聖ルカが画いた聖母マリアのイコン」を、一キロほど離れたバルバラ教会の地下に隠し、「トルコ人の手に落ちるよりは」と、あろうことか修道院を爆破したのだそうだ※この事は英語の解説書では、いくら調べても書かれていなかった。今回同行してくれたトルコ人ガイドさんがトルコ語で読んだ解説にだけあったそうだ。そう言われてあらためて見直すと、屋根が吹き飛んだと思われる場所もあり、「三か所で爆弾を爆発させた」というのも事実に思える。
●共和国トルコが成立した後も、ギリシャの逃れた人々はこのイコンの事を忘れなかった。ギリシャ北部に「パナギア・スメラ」という同じ名前の村をつくって住んでいた。
1931年、この小村を訪れた当時のギリシャ首相エレフシウス・ベニゼロスは、その事実を知り、後にトルコの第二代大統領となるイスメット・イノニュにイコンをギリシャに持ってくる交渉する。
同年10月25日、正装に身を包んだギリシャ正教司教アンブロジウスはトラブゾンに降り立つ。トルコ兵に守られ、スメラ修道院跡とバルバラ教会へ向かう。埋められていたイコンは無事そのまま発見され、その他の聖遺物と共にギリシャへ移送された。トルコ政府は司教に一か月の滞在許可を与えていたが、一行はたった四日、最短の滞在でトルコを後にした。
現在このイコンはギリシャ北部、マケドニア国境に近い山の中に1951年に建設された同名の教会に安置されている。そこはもともとのスメラと似た場所だという事で選ばれたそうである。
伝説によると、アテネで元異教の神殿にあった「聖ルカが画いた聖母マリアの肖像画(イコン)」が、AD385年にアテネから飛んできた。
聖ソフロニオスと聖バルナバは、ぞれぞれ別の場所で大天使ガブリエルが夢枕に現れ、導かれて旅をし、この岸壁にの洞窟にそのイコンがあるのを発見した。
二人がそこに住んだのが、この修道院の縁起である。
かつては七十室以上あったという修道院の中心が、この場所。
ここは自然の洞窟をふさいだ構造。
天井に巨大なマリアとキリストが画かれている
このマリアの顔が黒い事がスメラ修道院の語源と言われることもある。ギリシャ語で黒は「メラス」だから。
●別の語源説
この修道院のフルネームは「Panaghia tou melas、パナギア・トゥ・メラス」=黒い岩の聖母という。「t」を発音しにくかった住民が「s」の音になり、スメラとなった。
修道院の入り口から見たところ。20世紀までは屋根があった。写真も残されている。
●東ローマ帝国時代(後世ビザンチン帝国と呼ばれるようになる)。
皇帝はもちろんこの修道院を尊ぶ。イスタンブルの現アヤソフィアを建設したユスティニアヌス大帝の時代、配下の司令官だったベリサリウス(イタリアはラヴェンナに彼の肖像画モザイクが残る)が改築、鹿皮の写本多数が寄贈された。
1204年の第四十字軍によるラテン帝国成立により、亡命した東ローマ帝国コムネノス朝が、グルジアの後押しによりトレビゾンド王国を建設。アレクシウス三世などはこのスメラ修道院で戴冠式を挙行した。
●オスマントルコ時代
1453年にコンスタンチノープルが陥落した後、1461年にトレビゾンド王国も滅亡。イスラム教のオスマン・トルコが支配者となったが、修道院は変わらず信仰を集めていた。
トラブゾンにはたくさんのギリシャ正教を信仰する住民が暮らしており、オスマントルコはそれを迫害はしなかった。
皇太子時代にトラブゾンの知事で後にヤウズ・スルタンと呼ばれることになるセリムは、狩の時(?)具合が悪くなり修道院で手当てを受けた。「私がスルタンになったら、ここの聖母マリアに贈り物をしよう」と言った。
1512年にスルタンとなったセリムは、彼と同じ背丈の黄金の燭台五本を奉納した。イランを征服した時にはシャーの宝物からやはり燭台二本を贈っている。
1710年、1732年、1740年、修道院拡張。1860年には当時のスルタン・アブドゥルメジットの命により最大の大きさになり三十人の修道士が住んでいた。同じ清教徒であるロシアのツァーも訪れた事がある。
何度も装飾しなおされているため、フレスコ画も上塗りされた。この部分をみると、それがよくわかるだろう。
古いフレスコ画の表面がでこぼこになるように傷を付け、そのうえに漆喰を塗ったのだ。
なので、場所によりさまざまな時代のフレスコ画が入り混じっている。この旧約聖書の「鯨に飲み込まれたヨナ」はわりに新しい時代に見える。
ライオンに食べられて殉教したとされる紀元後一世紀の聖イグナチウス
なんとも表現がおもしろい。15世紀頃か?
落書きもたくさんある。ギリシャ語のもので1803と書かれているものがあったが、本当にその時代のものなのだろうか?
大天使ガブリエル
19世紀に暖炉がたくさんつくられたそうだが、これもその跡
★このように、オスマン・トルコの時代に入っても、修道院は庇護され無事に活動していた。破壊された教会を見て、すぐに「イスラム教徒が破壊した」と思い込むのは早計だ。
第一大戦でトルコが敗れると数年の間ロシアがこの地域を占領していた。彼らもまた正教徒であり、この修道院を破壊はしなかった。
1919年から後のアタチュルクが新制トルコへの革命をスタート。地中海に面したイズミール周辺から、イギリスに後押しされたギリシャが侵攻。1922年までトルコ国内で激しい戦争が続く。
イギリスは、ギリシャ系住民の多かったこのトラブゾン周辺を「ギリシャ・ポントス共和国」としてトルコから切り離そうとしたが失敗。ギリシャ⇔トルコ間の住民交換の時代、三万人以上のギリシャ系住民が街を離れていった。
スメラ修道院が本当の危機に陥ったのはこの時である。何百年ものあいだイスラムの支配者の元であっても、ギリシャ系住民が住み続けている間は問題なかった。一般住民がいなくなった時、本当の危機が訪れた。
1923年8月末、修道士たちはもっとも大事な「聖ルカが画いた聖母マリアのイコン」を、一キロほど離れたバルバラ教会の地下に隠し、「トルコ人の手に落ちるよりは」と、あろうことか修道院を爆破したのだそうだ※この事は英語の解説書では、いくら調べても書かれていなかった。今回同行してくれたトルコ人ガイドさんがトルコ語で読んだ解説にだけあったそうだ。そう言われてあらためて見直すと、屋根が吹き飛んだと思われる場所もあり、「三か所で爆弾を爆発させた」というのも事実に思える。
●共和国トルコが成立した後も、ギリシャの逃れた人々はこのイコンの事を忘れなかった。ギリシャ北部に「パナギア・スメラ」という同じ名前の村をつくって住んでいた。
1931年、この小村を訪れた当時のギリシャ首相エレフシウス・ベニゼロスは、その事実を知り、後にトルコの第二代大統領となるイスメット・イノニュにイコンをギリシャに持ってくる交渉する。
同年10月25日、正装に身を包んだギリシャ正教司教アンブロジウスはトラブゾンに降り立つ。トルコ兵に守られ、スメラ修道院跡とバルバラ教会へ向かう。埋められていたイコンは無事そのまま発見され、その他の聖遺物と共にギリシャへ移送された。トルコ政府は司教に一か月の滞在許可を与えていたが、一行はたった四日、最短の滞在でトルコを後にした。
現在このイコンはギリシャ北部、マケドニア国境に近い山の中に1951年に建設された同名の教会に安置されている。そこはもともとのスメラと似た場所だという事で選ばれたそうである。