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昭化古城
広元市郊外の昭化古城は旧名を葭萌関といい、張飛と馬超が夜を徹して戦っ
た場所。
魏・呉・蜀の三国鼎立が定まる前夜、確たる領土を持たなかった劉備が成都
の太守劉璋(りゅうしょう)の求めをうけ、漢中の張魯(ちょうろ)の南下
に対して援軍として出撃し、成都進出への足がかりを作った。当時、曹操に
破れ、張魯のもとにいた馬超は劉備軍と戦い、張飛と馬超は決着がつかず馬
超の勇姿を惜しんだ劉備の仲立ちもあり、その後馬超は劉備の下に身を寄せ
る。 以後、張飛・馬超は蜀の五虎将軍(趙雲、関羽、張飛、馬超、黄忠)の
なった。
昭化古城は揚子江の支流嘉陵江に注ぐさらに支流の清水河に沿い、四戦の地
とも言われ、東西南北の各関に通じる、蜀の咽喉に当る重要戦略拠点で全体
が遺跡となっている。
地元の伝説によると、広元出身の則天武后が、幼少の頃母に連られてここに
よく遊びにきたことがあると言う。毎年9月1日は則天武后を記念するために
「女の祭り」が行われ、更に、旧暦の1月23日には則天武后の誕生日を祝う盛
大な儀式を行われる。
広元市郊外の昭化古城は旧名を葭萌関といい、張飛と馬超が夜を徹して戦っ
た場所。
魏・呉・蜀の三国鼎立が定まる前夜、確たる領土を持たなかった劉備が成都
の太守劉璋(りゅうしょう)の求めをうけ、漢中の張魯(ちょうろ)の南下
に対して援軍として出撃し、成都進出への足がかりを作った。当時、曹操に
破れ、張魯のもとにいた馬超は劉備軍と戦い、張飛と馬超は決着がつかず馬
超の勇姿を惜しんだ劉備の仲立ちもあり、その後馬超は劉備の下に身を寄せ
る。 以後、張飛・馬超は蜀の五虎将軍(趙雲、関羽、張飛、馬超、黄忠)の
なった。
昭化古城は揚子江の支流嘉陵江に注ぐさらに支流の清水河に沿い、四戦の地
とも言われ、東西南北の各関に通じる、蜀の咽喉に当る重要戦略拠点で全体
が遺跡となっている。
地元の伝説によると、広元出身の則天武后が、幼少の頃母に連られてここに
よく遊びにきたことがあると言う。毎年9月1日は則天武后を記念するために
「女の祭り」が行われ、更に、旧暦の1月23日には則天武后の誕生日を祝う盛
大な儀式を行われる。
ロウ中古城
ロウ(門の中に良)中古城は四川の東北部に位置し、紀元前314年に築かれ
た2300年の歴史を持つ小さい町。ロウ中は雲南の麗江、山西の平遥、徽州の
歙県と合わせ 中国四大古鎮と称えられている。
蜀国の名将軍張飛が駐屯して7年もなる地で、また、彼が部下に殺された地
でもあるから、張飛の町とも言われる。
「恒侯」は飛廟の謚 (おくりな) 。関羽の弔い合戦へ参加した途中、范彊と
張達に殺害された張飛の胴体がこの地に埋葬され、廟が建てられた。お墓は
漢桓侯祠の境内の一番奥にある。墓前には墓碑ではなく墓亭と張飛像が立て
られており、他の武将の墓とは一味違っている。ちなみに、頭部は雲陽に葬
られたとされ、ロウ中の雲陽は飛廟の聖地となっています。最初の廟は火災
で焼失し、現存する廟は明・清時代に何度も修復されたもの。「蛇矛」の展
示もある。
ロウ(門の中に良)中古城は四川の東北部に位置し、紀元前314年に築かれ
た2300年の歴史を持つ小さい町。ロウ中は雲南の麗江、山西の平遥、徽州の
歙県と合わせ 中国四大古鎮と称えられている。
蜀国の名将軍張飛が駐屯して7年もなる地で、また、彼が部下に殺された地
でもあるから、張飛の町とも言われる。
「恒侯」は飛廟の謚 (おくりな) 。関羽の弔い合戦へ参加した途中、范彊と
張達に殺害された張飛の胴体がこの地に埋葬され、廟が建てられた。お墓は
漢桓侯祠の境内の一番奥にある。墓前には墓碑ではなく墓亭と張飛像が立て
られており、他の武将の墓とは一味違っている。ちなみに、頭部は雲陽に葬
られたとされ、ロウ中の雲陽は飛廟の聖地となっています。最初の廟は火災
で焼失し、現存する廟は明・清時代に何度も修復されたもの。「蛇矛」の展
示もある。
剣門関
四川省広元市剣閣県にある大剣山は、山脈がくねくねと連なり、頂上まで行
くといきなり切り立った崖になっている。北から南を眺めると、どの山も剣
のようにそびえて、ただ一本だけ道が通っている。これが「天下の雄関」剣
門関だ。
「剣門関を得れば、四川を得る」とも言われた険峻地で、この二千数百年
の間に百回近くの戦いがあった。三国時代には諸葛孔明が関楼の下の谷に15
kmに及ぶ閣道を造って北伐の根拠地とした。そして蜀が滅亡した直前、3ヶ
月に渡って剣門関を死守したのが蜀の最後の名将の姜維である。263年8月、
魏は全軍をあげて蜀に侵攻する。姜維は沓中から退いて剣閣(剣門関)に立
てこもり、鐘会に抵抗した。兵数10万を誇る鐘会軍もなかなかこれを攻め落
とせず、姜維に向かって投降を呼びかけるが、姜維は頑に抵抗を続けた。し
かし、?艾が陰平から前人未踏の険路を七百里も超えて江油に入り、綿竹関
の諸葛瞻を討ち取って成都に至り、劉禅は無抵抗で魏に降伏した。事情を知
らぬ姜維は広漢に退き状況把握につとめた。城主の「降伏せよ」との令を知
り、姜維は「ふ城」で鐘会に降伏した。武将達は知らせを聞くと、刀を抜い
て石を斬りつけ、その無念さを表した。
四川省広元市剣閣県にある大剣山は、山脈がくねくねと連なり、頂上まで行
くといきなり切り立った崖になっている。北から南を眺めると、どの山も剣
のようにそびえて、ただ一本だけ道が通っている。これが「天下の雄関」剣
門関だ。
「剣門関を得れば、四川を得る」とも言われた険峻地で、この二千数百年
の間に百回近くの戦いがあった。三国時代には諸葛孔明が関楼の下の谷に15
kmに及ぶ閣道を造って北伐の根拠地とした。そして蜀が滅亡した直前、3ヶ
月に渡って剣門関を死守したのが蜀の最後の名将の姜維である。263年8月、
魏は全軍をあげて蜀に侵攻する。姜維は沓中から退いて剣閣(剣門関)に立
てこもり、鐘会に抵抗した。兵数10万を誇る鐘会軍もなかなかこれを攻め落
とせず、姜維に向かって投降を呼びかけるが、姜維は頑に抵抗を続けた。し
かし、?艾が陰平から前人未踏の険路を七百里も超えて江油に入り、綿竹関
の諸葛瞻を討ち取って成都に至り、劉禅は無抵抗で魏に降伏した。事情を知
らぬ姜維は広漢に退き状況把握につとめた。城主の「降伏せよ」との令を知
り、姜維は「ふ城」で鐘会に降伏した。武将達は知らせを聞くと、刀を抜い
て石を斬りつけ、その無念さを表した。
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