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- 黒海の真珠ヤルタの魅力
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エリア:
- ヨーロッパ>ウクライナ>ヤルタ
- テーマ:観光地 クルーズ 歴史・文化・芸術
- 投稿日:2010/12/24 16:38
- コメント(0)
2010年5月、ウクライナという黒海が南に面する旧ソ連の国へ行ってまいりました。
ウクライナの人たちは、底抜けに明るい気質の持ち主だそうですが、ツアー中感じたのは、お客様に楽しんでもらおう、ウクライナを知ってもらいたい、という暖かなホスピタリティ精神でした。
そんなあったかな国ウクライナの中でも特に暖かく、リゾート地として人気なのがヤルタ。
「黒海の真珠」と呼ばれ、ロシア人が愛してやまない街です。
タイトル画像はヤルタの町を遠望したもの。黒海は太陽の光でやや青みがかった色合いでとても神秘的でした。ではそんな美しいヤルタをご紹介いたします。
ヤルタは昔から別荘地、保養地として特にロシア人が愛した街でした。歴史の皮肉で、ソ連時代にウクライナ領となり、そのままウクライナとして、ソ連崩壊と同時に独立してしまいましたが、今でもロシア人が多数派です(国籍はウクライナでも)ので、クリミア半島だけでの独立も考えたんだそうです。
いろいろありまして、今はクリミア自治共和国となっているのだそうです。

さて、写真の断崖絶壁に残るこの建物は、20世紀初頭にドイツ人のオイル王が自分の愛したジプシー娘のために造った別荘だったそうですが、ジプシー娘には振られてしまったという、ちょっと悲しい別荘です。なぜこんなところにあるかは、現地でガイドさんの話を聞いていただけると幸いです。
いま私が話してしまうと、ヤルタのガイドさんに申し訳がないですしね。
そしてヤルタといえば、日本人なら絶対誰もが一度は(多分)耳にしたことがあるはずです。
そう、あのヤルタ会談が行われたところです。

というわけで、その会談が行われたリバディア宮殿へ訪れました。写真は、スターリンさんとルーズベルトさんが日本侵攻に関する密約を行った場所です。ここから、かの北方領土問題がうまれたのか〜と感慨深い思いになりました。

そして、3巨頭のひとりチャーチルさんが宿泊していたアルプカ宮殿にはいまもチャーチルさんがお休みでした。
このライオン像は、チャーチルさん自ら「私にそっくり」と大変お気に入りだったそうです。
この宮殿はお金持ちの貴族の別荘として造られましたけど、イギリスとアラブの様式がミックスされた、異国情緒あふれ出る建築で、訪れた人を魅了していました。


しかも、温室があるのですが、大理石の彫刻と緑の美しいコントラストに誰もが足を止めてしまいました。
ちなみにオクにある女の子の全身像の彫刻はイタリアのかの有名な彫刻家ベルニーニの作です。
そして、ダイニング。広々としてなんともまぁ開放的。
ヤルタは太陽の光があふれ、人々も陽気で、ロシア貴族たちがココへ訪れる気持ちがよくわかりました。
ロマノフ王朝最後の皇帝ニコライ2世も、リバディア宮殿を造ったのですけど、退位した後、この宮殿で隠遁生活をおくりたいと考えていたようです。
秋から春にかけて、お召し列車とボートでヤルタへ訪れた皇帝一家は、激動の時代にこの暖かい地でひと時の安らぎを求めていたのかもしれません。リバディア宮殿には皇帝一家が残した多くの写真の一部が残っています。
残念ながら、1914年の春を最後に、皇帝一家はヤルタへ戻ることはなく、銃殺されてしまったのですが…。
保養地として、リゾート地として美しいヤルタは人気があります。
また、交易の港としても栄えていました。
タタール人といわれる、モンゴル系の人々やトルコ系の人々、ウクライナ人にロシア人、多くの人が行きかう街です。
遥か昔のギリシア神話でも、「アルゴー号」という船が漂流しているときにようやっと見つけた海岸線に感動し「ヤロース」、海岸線、と叫んだんだそうですが、それが名前の由来なんだそうです。
黒海の真珠ヤルタ、一度は訪れてみる価値があります。
ウクライナの人たちは、底抜けに明るい気質の持ち主だそうですが、ツアー中感じたのは、お客様に楽しんでもらおう、ウクライナを知ってもらいたい、という暖かなホスピタリティ精神でした。
そんなあったかな国ウクライナの中でも特に暖かく、リゾート地として人気なのがヤルタ。
「黒海の真珠」と呼ばれ、ロシア人が愛してやまない街です。
タイトル画像はヤルタの町を遠望したもの。黒海は太陽の光でやや青みがかった色合いでとても神秘的でした。ではそんな美しいヤルタをご紹介いたします。
ヤルタは昔から別荘地、保養地として特にロシア人が愛した街でした。歴史の皮肉で、ソ連時代にウクライナ領となり、そのままウクライナとして、ソ連崩壊と同時に独立してしまいましたが、今でもロシア人が多数派です(国籍はウクライナでも)ので、クリミア半島だけでの独立も考えたんだそうです。
いろいろありまして、今はクリミア自治共和国となっているのだそうです。

さて、写真の断崖絶壁に残るこの建物は、20世紀初頭にドイツ人のオイル王が自分の愛したジプシー娘のために造った別荘だったそうですが、ジプシー娘には振られてしまったという、ちょっと悲しい別荘です。なぜこんなところにあるかは、現地でガイドさんの話を聞いていただけると幸いです。
いま私が話してしまうと、ヤルタのガイドさんに申し訳がないですしね。
そしてヤルタといえば、日本人なら絶対誰もが一度は(多分)耳にしたことがあるはずです。
そう、あのヤルタ会談が行われたところです。

というわけで、その会談が行われたリバディア宮殿へ訪れました。写真は、スターリンさんとルーズベルトさんが日本侵攻に関する密約を行った場所です。ここから、かの北方領土問題がうまれたのか〜と感慨深い思いになりました。

そして、3巨頭のひとりチャーチルさんが宿泊していたアルプカ宮殿にはいまもチャーチルさんがお休みでした。
このライオン像は、チャーチルさん自ら「私にそっくり」と大変お気に入りだったそうです。
この宮殿はお金持ちの貴族の別荘として造られましたけど、イギリスとアラブの様式がミックスされた、異国情緒あふれ出る建築で、訪れた人を魅了していました。


しかも、温室があるのですが、大理石の彫刻と緑の美しいコントラストに誰もが足を止めてしまいました。
ちなみにオクにある女の子の全身像の彫刻はイタリアのかの有名な彫刻家ベルニーニの作です。
そして、ダイニング。広々としてなんともまぁ開放的。
ヤルタは太陽の光があふれ、人々も陽気で、ロシア貴族たちがココへ訪れる気持ちがよくわかりました。
ロマノフ王朝最後の皇帝ニコライ2世も、リバディア宮殿を造ったのですけど、退位した後、この宮殿で隠遁生活をおくりたいと考えていたようです。
秋から春にかけて、お召し列車とボートでヤルタへ訪れた皇帝一家は、激動の時代にこの暖かい地でひと時の安らぎを求めていたのかもしれません。リバディア宮殿には皇帝一家が残した多くの写真の一部が残っています。
残念ながら、1914年の春を最後に、皇帝一家はヤルタへ戻ることはなく、銃殺されてしまったのですが…。
保養地として、リゾート地として美しいヤルタは人気があります。
また、交易の港としても栄えていました。
タタール人といわれる、モンゴル系の人々やトルコ系の人々、ウクライナ人にロシア人、多くの人が行きかう街です。
遥か昔のギリシア神話でも、「アルゴー号」という船が漂流しているときにようやっと見つけた海岸線に感動し「ヤロース」、海岸線、と叫んだんだそうですが、それが名前の由来なんだそうです。
黒海の真珠ヤルタ、一度は訪れてみる価値があります。

- パナマ運河〜大陸を切り裂き大海を繋いだ運河〜
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エリア:
- 中南米>パナマ>パナマシティ
- テーマ:観光地 クルーズ 歴史・文化・芸術
- 投稿日:2010/12/10 16:27
- コメント(0)
アメリカ大陸は昔一つだったのをご存知ですか?
19-20世紀初頭、世界の移動は大型船が主流だった頃、ヨーロッパからアジアへ向かうには南北アメリカ大陸をぐるりと回らなければなりませんでした。
19世紀末にスエズ運河設計で有名なレセップスがフランス主導の下の運河建設を断念し、いろいろな経緯のなかでコロンビアからパナマ共和国が独立し、結局アメリカ主導で造られたパナマ運河は、船旅の移動日数をあっという間に短縮させました。
この工事には、明治時代であったにもかかわらず、日本人技師が1人参加していました。
さらに今でも船を牽引する電気機関車は日本の東洋電機製造製だといいますから、パナマ運河は日本と割りと深い関わりがあると思いませんか?
さて、そのパナマ運河には3つの閘門があります。
これは大西洋と太平洋の海の表面の高さが異なるため、大陸を横断中にそれを調整しようという、すごいことを行っているわけでして、この一日に及ぶ通過の行程こそが、パナマ運河クルーズ最大の見せ場なのです。
年に1万隻近い客船が通過するというのですから、その人気っぷりは一目瞭然です。
そして一番興奮するのが、パナマックスと呼ばれる、船体が運河通過ぎりぎりの幅の大型客船の通過なのです。乗客はデッキにでて、自分達の客船がどんな風に通過していくのかじっくりと楽しむことが出来ます。
一日という行程なので、自室のバルコニー(付を選んだ場合)から見たり、デッキに出たりと、いろんなところで楽しめます。もちろん、大抵の人がカメラを持参していますが、もう何回も訪れている乗客はのんびりと、今回の行程を楽しんでいました。
運河の入り口のアメリカ大陸橋を抜けて、ミラフロレス閘門、ペドロ・ミゲル閘門を通過しました。この二つの閘門によって、高さの違う海の横断が可能なのです。閘門へ入ると、門が閉ざされ、勢いよく水が注がれます。船はゆっくりと上昇していきます。さながらエレベーターのように。デッキから見える景色がゆっくりと上昇し、やがて水が門を一杯にしてゆっくりと開きます。
観客からは大きな歓声が上がります。
最後のガトゥン閘門を抜けると、おお、大陸を横断した!という感動、充足感、で誰もが興奮した瞬間!と、同時にこれで終わったのかという寂寥感が胸に広がりました。しかしながら、目の前に広がる海を見ていると、再び高揚感が生まれてくるのです。
なぜなら同じに見えるのに昨日とは高さも名前も違う海にいるのだと、本当に実感できるからです。
恐らく100年前、ここを通過した人の感動は一入だったであろうと思います。
より多くの可能性を求めて、大陸を二つに分けた人々の大いなる夢とその偉業に思いを馳せながら次の目的地へ船は出港するのです。


19-20世紀初頭、世界の移動は大型船が主流だった頃、ヨーロッパからアジアへ向かうには南北アメリカ大陸をぐるりと回らなければなりませんでした。
19世紀末にスエズ運河設計で有名なレセップスがフランス主導の下の運河建設を断念し、いろいろな経緯のなかでコロンビアからパナマ共和国が独立し、結局アメリカ主導で造られたパナマ運河は、船旅の移動日数をあっという間に短縮させました。
この工事には、明治時代であったにもかかわらず、日本人技師が1人参加していました。
さらに今でも船を牽引する電気機関車は日本の東洋電機製造製だといいますから、パナマ運河は日本と割りと深い関わりがあると思いませんか?
さて、そのパナマ運河には3つの閘門があります。
これは大西洋と太平洋の海の表面の高さが異なるため、大陸を横断中にそれを調整しようという、すごいことを行っているわけでして、この一日に及ぶ通過の行程こそが、パナマ運河クルーズ最大の見せ場なのです。
年に1万隻近い客船が通過するというのですから、その人気っぷりは一目瞭然です。
そして一番興奮するのが、パナマックスと呼ばれる、船体が運河通過ぎりぎりの幅の大型客船の通過なのです。乗客はデッキにでて、自分達の客船がどんな風に通過していくのかじっくりと楽しむことが出来ます。
一日という行程なので、自室のバルコニー(付を選んだ場合)から見たり、デッキに出たりと、いろんなところで楽しめます。もちろん、大抵の人がカメラを持参していますが、もう何回も訪れている乗客はのんびりと、今回の行程を楽しんでいました。
運河の入り口のアメリカ大陸橋を抜けて、ミラフロレス閘門、ペドロ・ミゲル閘門を通過しました。この二つの閘門によって、高さの違う海の横断が可能なのです。閘門へ入ると、門が閉ざされ、勢いよく水が注がれます。船はゆっくりと上昇していきます。さながらエレベーターのように。デッキから見える景色がゆっくりと上昇し、やがて水が門を一杯にしてゆっくりと開きます。
観客からは大きな歓声が上がります。
最後のガトゥン閘門を抜けると、おお、大陸を横断した!という感動、充足感、で誰もが興奮した瞬間!と、同時にこれで終わったのかという寂寥感が胸に広がりました。しかしながら、目の前に広がる海を見ていると、再び高揚感が生まれてくるのです。
なぜなら同じに見えるのに昨日とは高さも名前も違う海にいるのだと、本当に実感できるからです。
恐らく100年前、ここを通過した人の感動は一入だったであろうと思います。
より多くの可能性を求めて、大陸を二つに分けた人々の大いなる夢とその偉業に思いを馳せながら次の目的地へ船は出港するのです。



- マハラジャとピンクの街
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エリア:
- アジア>インド>ジャイプール
- テーマ:街中・建物・景色 世界遺産 歴史・文化・芸術
- 投稿日:2010/12/10 10:46
- コメント(1)
インドの北西にはラジャスタン州があります。
州都はジャイプールです。
この街は旧市街へ入る入り口のかつての城門からピンク色で、とても華やかな雰囲気です。
華やかな街はピンクシティーと称され、インド観光地のゴールデントライアングルと呼ばれる一大観光地です。
ここの観光の目玉としてご覧頂きたいのは、風の宮殿、シティ・パレス、ジャンタル・マンタル、近郊のお城アンベール城などです。
これらは全部、この地の統治者だった藩王国の王「マハラジャ」によって代々受け継がれてきたものです。
皆様は「マハラジャ」をご存知ですか?「偉大な王」という意味です。
第二次大戦前、インドには沢山の藩王国が存在し、彼らの「国土」は英国統治下の時代であっても、基本的には「自分たちの領土の統治権」を有していたわけです。
例えばジャンタル・マンタルというのは天文台ですが、当時の最新学問を駆使してつくった天文台の、その正確さには驚かれます。
そして、こうした「時を支配する」物をこんなに大きく造り上げられるなんて、しっかりとした権力が安定していたからなのでしょうか。
第二次大戦後、インドから英国が去り、インドは共和国になることになったと同時に、藩王国は消滅することとなり、実質、今はマハラジャは一市民です。
この街に初めて訪れたときに、シティ・パレスの売店だったと思いますが、最後のマハラジャ、マン・シン2世の第3妃(マハラニ)ガーヤトリー・デヴィが残した回想録が売っておりまして、表紙の女性が綺麗でしたので、つつっと購入してしまいました。
残念ながら英語のため、流し読みしか出来ず、とても熟読とはいえません。しかしながら、第二次大戦前と後では彼女の生活が180度変わってしまったことはよくわかりました。
長く英国に統治されてきたため、自分たち主導の政治の理想と現実の差にインドはとても大変でした。
おりしも印パ戦争が起きて、北インドの西と東の国境はパキスタンへ逃れるムスリムと新しいインドへ逃れるパキスタン側のヒンドゥーの難民の相互流入によって大変なことになりました。
ジャイプールは、インドの西側に位置します。
ジャイプールはとても大変でした。
元々、16世紀、このそばには「タージ・マハル」で有名なムガル帝国があり、この巨大な権力に飲み込まれないように、ジャイプールの代々のマハラジャは彼らに恭順を示し、イスラム文化も多く受け入れてきました。
そのため、街の雰囲気はイスラムチックなヒンドゥー文化であり、とてもエキゾチックで華やかです。
そうした歴史背景があるため、最後のマハラジャとマハラニ、マン・シン2世とガーヤトリーは、インドが独立するとたんにパキスタンが生まれ、宗教が異なるもの同士がいがみ合う姿にとても歯がゆい思いがあったようです。
王族から一般市民へ。
彼らには「統治」する権利がなくなってしまったのでした。
しかし共和国政府は誕生したばかり。何もかもが理想どおり行きません。
華やかなジャイプールのシティ・パレスで、二人は苦悩したのでしょう。
選挙が行われる、となると同じような立場の王族同士で協力し立候補して、「無党派」として政府に物申したのです。
インドがひとまず落ち着く頃、自分たちの宮殿をホテルにしたり博物館にして観光客に開放しました。ジャイプールは観光客が多く訪れる街として画期がみなぎり、今に至るわけです。
彼らは「王族」ではなくなりましたが、今でも市民に「マハラジャ」として慕われ、ジャイプールに住んでいます。
昨年、マハラニ・ガーヤトリー・デヴィは90歳で亡くなりました。
ロンドンで入院したそうですが、ジャイプールへ戻りたいと、戻ってきてなくなったそうです。
華やかなピンク色の街並み。
華やかなマハラジャ達の生活。
それらが今に伝わるのは、街を、市民を愛し、最後まで責任を持ったマハラジャとそのマハラジャへの尊敬の念を失わなかった市民のおかげなのかも知れません。
州都はジャイプールです。
この街は旧市街へ入る入り口のかつての城門からピンク色で、とても華やかな雰囲気です。
華やかな街はピンクシティーと称され、インド観光地のゴールデントライアングルと呼ばれる一大観光地です。
ここの観光の目玉としてご覧頂きたいのは、風の宮殿、シティ・パレス、ジャンタル・マンタル、近郊のお城アンベール城などです。
これらは全部、この地の統治者だった藩王国の王「マハラジャ」によって代々受け継がれてきたものです。
皆様は「マハラジャ」をご存知ですか?「偉大な王」という意味です。
第二次大戦前、インドには沢山の藩王国が存在し、彼らの「国土」は英国統治下の時代であっても、基本的には「自分たちの領土の統治権」を有していたわけです。
例えばジャンタル・マンタルというのは天文台ですが、当時の最新学問を駆使してつくった天文台の、その正確さには驚かれます。
そして、こうした「時を支配する」物をこんなに大きく造り上げられるなんて、しっかりとした権力が安定していたからなのでしょうか。
第二次大戦後、インドから英国が去り、インドは共和国になることになったと同時に、藩王国は消滅することとなり、実質、今はマハラジャは一市民です。
この街に初めて訪れたときに、シティ・パレスの売店だったと思いますが、最後のマハラジャ、マン・シン2世の第3妃(マハラニ)ガーヤトリー・デヴィが残した回想録が売っておりまして、表紙の女性が綺麗でしたので、つつっと購入してしまいました。
残念ながら英語のため、流し読みしか出来ず、とても熟読とはいえません。しかしながら、第二次大戦前と後では彼女の生活が180度変わってしまったことはよくわかりました。
長く英国に統治されてきたため、自分たち主導の政治の理想と現実の差にインドはとても大変でした。
おりしも印パ戦争が起きて、北インドの西と東の国境はパキスタンへ逃れるムスリムと新しいインドへ逃れるパキスタン側のヒンドゥーの難民の相互流入によって大変なことになりました。
ジャイプールは、インドの西側に位置します。
ジャイプールはとても大変でした。
元々、16世紀、このそばには「タージ・マハル」で有名なムガル帝国があり、この巨大な権力に飲み込まれないように、ジャイプールの代々のマハラジャは彼らに恭順を示し、イスラム文化も多く受け入れてきました。
そのため、街の雰囲気はイスラムチックなヒンドゥー文化であり、とてもエキゾチックで華やかです。
そうした歴史背景があるため、最後のマハラジャとマハラニ、マン・シン2世とガーヤトリーは、インドが独立するとたんにパキスタンが生まれ、宗教が異なるもの同士がいがみ合う姿にとても歯がゆい思いがあったようです。
王族から一般市民へ。
彼らには「統治」する権利がなくなってしまったのでした。
しかし共和国政府は誕生したばかり。何もかもが理想どおり行きません。
華やかなジャイプールのシティ・パレスで、二人は苦悩したのでしょう。
選挙が行われる、となると同じような立場の王族同士で協力し立候補して、「無党派」として政府に物申したのです。
インドがひとまず落ち着く頃、自分たちの宮殿をホテルにしたり博物館にして観光客に開放しました。ジャイプールは観光客が多く訪れる街として画期がみなぎり、今に至るわけです。
彼らは「王族」ではなくなりましたが、今でも市民に「マハラジャ」として慕われ、ジャイプールに住んでいます。
昨年、マハラニ・ガーヤトリー・デヴィは90歳で亡くなりました。
ロンドンで入院したそうですが、ジャイプールへ戻りたいと、戻ってきてなくなったそうです。
華やかなピンク色の街並み。
華やかなマハラジャ達の生活。
それらが今に伝わるのは、街を、市民を愛し、最後まで責任を持ったマハラジャとそのマハラジャへの尊敬の念を失わなかった市民のおかげなのかも知れません。
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