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- 海を渡った謎多き文明〜ドーラビーラー
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エリア:
- アジア>インド>インドその他の都市
- テーマ:観光地 街中・建物・景色 歴史・文化・芸術
- 投稿日:2011/03/04 16:38
- コメント(0)
先日、西インドにあるインダス文明の遺跡ドーラビーラーへ訪れるツアーへ行ってまいりました。
歴史の教科書の一番最初に出てくる、いわゆる4大文明の一つのインダス文明。直ぐに思い浮かぶ遺跡の名前は「モヘンジョ・ダロ」や「ハラッパー」ですが、インダス文明は大変広い領域に多くの都市が点在していたようです。
現在、西インドはグジャラート州に残るインダス文明の都市遺跡はまさにそんな都市の一つだったようです。
遺跡に一番近い街、ブジからバスで約5時間(もちろん休憩も入れて)。
眼前に真っ白な平原が広がりました。
雲ひとつない青い空の下でキラキラ輝いています。このあたりは湿地帯で、7月くらいになると雨などの影響でまるで海のようになるそうです。今は乾いているため、塩の平原が続いていますが、少し掘ってみるともう水が見えました。
今から約4000年前〜3000年前、このあたりは浅瀬の海だったのだとか。
私達がこれから向かうドーラビーラーはそんな浅瀬の海に囲まれた、島にある都市だったのかもしれません。
塩の平原を抜けてようやっと遺跡へ到着。
いよいよ謎のインダス文明の遺跡が私達の前に姿を現します。
眼前にまず大きなくぼみと石段が見えてきます。
城門の前の大きな貯水池のあとです。
まるで島のように、周りを浅瀬の海で囲まれていたと想像されるドーラビーラーでは塩分のない水の確保はとても大事なことだったのでしょう。
城門をはいって真っ先に見たのはやはり水利システムです。
城内に引き込んだ水が腐らないように、風を通して、人が掃除できるようになっていたそうです。

いま表に出ているのは紀元前1500年位前の遺構だそうです。石組みがいくつも続くのは恐らく住居跡でしょう、との事。
ぽつんと石臼がおいてあり、この地方の村人が今も使っているものとよく似ていて、ドーラビーラー遺跡で過去に生活していた人々の姿がなんとなく思い浮かびました。
日陰もなく、訪れる人も殆どない、少々忘れられた感のある遺跡ですが、インダス文明を解明する重要な手がかりの発見されたところとあって、案内の係りの人は少々誇らしげ。
「インド人のいまの生活に根付く、牛を聖なる動物として崇めることなどは、まさにこのインダス文明から続いているのだ、ほら、看板の下のマークを良く見て。この牛のマークの印章は、まさにこの遺跡から見つかったものなんだ。恐らく何かしらの契約などに使用したと思われるけど、大切な約束事に使用したんだから、牛はやっぱり聖なる動物だったんだよ」
それに、ここからはインダス文字が10文字も書かれた看板が北門からも見つかっているし、インダス文明の謎を解く鍵が沢山埋まっているのだ。
と、教えてくれました。

はるか昔のドーラビーラーの人々の生活が少し垣間見えるような、そんな気がしました。
いまはインドの西の端っこ、パキスタンとの国境にある遺跡ですが、古代文明の謎が一杯詰まった宝箱のようなところです。
次来るときにはどんな新しい発見が、私たちに古代の生活の一端を伝えてくれるのでしょう。
よろしければこちらもご覧下さい。
歴史の教科書の一番最初に出てくる、いわゆる4大文明の一つのインダス文明。直ぐに思い浮かぶ遺跡の名前は「モヘンジョ・ダロ」や「ハラッパー」ですが、インダス文明は大変広い領域に多くの都市が点在していたようです。
現在、西インドはグジャラート州に残るインダス文明の都市遺跡はまさにそんな都市の一つだったようです。
遺跡に一番近い街、ブジからバスで約5時間(もちろん休憩も入れて)。
眼前に真っ白な平原が広がりました。
雲ひとつない青い空の下でキラキラ輝いています。このあたりは湿地帯で、7月くらいになると雨などの影響でまるで海のようになるそうです。今は乾いているため、塩の平原が続いていますが、少し掘ってみるともう水が見えました。
今から約4000年前〜3000年前、このあたりは浅瀬の海だったのだとか。
私達がこれから向かうドーラビーラーはそんな浅瀬の海に囲まれた、島にある都市だったのかもしれません。
塩の平原を抜けてようやっと遺跡へ到着。
いよいよ謎のインダス文明の遺跡が私達の前に姿を現します。
眼前にまず大きなくぼみと石段が見えてきます。
城門の前の大きな貯水池のあとです。
まるで島のように、周りを浅瀬の海で囲まれていたと想像されるドーラビーラーでは塩分のない水の確保はとても大事なことだったのでしょう。
城門をはいって真っ先に見たのはやはり水利システムです。
城内に引き込んだ水が腐らないように、風を通して、人が掃除できるようになっていたそうです。

いま表に出ているのは紀元前1500年位前の遺構だそうです。石組みがいくつも続くのは恐らく住居跡でしょう、との事。
ぽつんと石臼がおいてあり、この地方の村人が今も使っているものとよく似ていて、ドーラビーラー遺跡で過去に生活していた人々の姿がなんとなく思い浮かびました。
日陰もなく、訪れる人も殆どない、少々忘れられた感のある遺跡ですが、インダス文明を解明する重要な手がかりの発見されたところとあって、案内の係りの人は少々誇らしげ。
「インド人のいまの生活に根付く、牛を聖なる動物として崇めることなどは、まさにこのインダス文明から続いているのだ、ほら、看板の下のマークを良く見て。この牛のマークの印章は、まさにこの遺跡から見つかったものなんだ。恐らく何かしらの契約などに使用したと思われるけど、大切な約束事に使用したんだから、牛はやっぱり聖なる動物だったんだよ」
それに、ここからはインダス文字が10文字も書かれた看板が北門からも見つかっているし、インダス文明の謎を解く鍵が沢山埋まっているのだ。
と、教えてくれました。

はるか昔のドーラビーラーの人々の生活が少し垣間見えるような、そんな気がしました。
いまはインドの西の端っこ、パキスタンとの国境にある遺跡ですが、古代文明の謎が一杯詰まった宝箱のようなところです。
次来るときにはどんな新しい発見が、私たちに古代の生活の一端を伝えてくれるのでしょう。
よろしければこちらもご覧下さい。

- インダス文明〜海へ向かったロータルの民〜
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エリア:
- アジア>インド>インドその他の都市
- テーマ:観光地 歴史・文化・芸術
- 投稿日:2011/02/24 22:59
- コメント(0)
インドはクルーズの寄港地としては少々なじみが薄い場所です。
理由はいろいろあります。
国が大きい。
インドまで行くなら、そこを越えてアフリカまで向かうことが多く日数が長いコースが多いため、乗船しにくい。
それで、なんとなくクルーズ寄港地としてのインドは、ムンバイなどの一部の町を除いて、イメージにないような気がいたします。
しかし、インドはやはり大きくて深い国でした。
いずれ、リバークルーズのお話などもさせて頂きたいのですが、今回は遥か古代、アラビア海を渡ったインド人の先祖の方々のお話です。
そう、インダス文明です。
インダス文明は、世界4大文明といわれる超有名な古代文明の一つです。
恥ずかしながら私は、このあたりの古代史は少々疎く、今回、改めて本をひっくり返して付け焼刃な勉強をしたのですが、その深さを広大さに、頭がおぼれてしまいそうでした。
インダス文明とは、現代のパキスタンからインドのの西北部にかけて、インダス河といまはかれてしまったサラスヴァーティーという河の間の肥沃な土地に広がった一大文化圏だったようです。
ざっとその大きさを見ますと日本の国土よりも遥かに広い文化圏だったことがわかります。
いま、西インドで発掘されている遺跡は二つ。
今日はその一つ、ロータル遺跡の紹介です。
いまは、海まで80?ある内陸の遺跡ですが、古代は7km程しか離れておらず、町の直ぐそばを川が流れ、それを引き込んだ船着場を造っていたと考えられています。
小さな遺跡ですが、しっかりとした大きな井戸があり、その直ぐ奥には倉庫跡、さらに奥にはアクロポリス、恐らく支配者層の邸宅跡が残ります。
歴史にしてざっと3500年前の遺構です。
乾燥した日干し煉瓦の文化は素晴らしい。そんな昔の遺構がいまもしっかり残っているのだから。
よくよく見ると、細い管のような跡が。
そう、配水管です。
お手洗いやキッチンが一列並びに設けられていたようです。
そしてその後ろを配水管が通っていたのです。

もしや水洗トイレだったのでしょうか?
さらに歩を進めると、大きなバスタブのような、多分小さな浴場とアクロポリス専用の井戸が。
インダス文明は水の管理がしっかりしていた文明だったようです。
工房跡を過ぎて市場の跡に。
7km先のアラビア海から河をつたい、異国からは様々なものが入ってきたでしょう。
そして恐らく、ロータル遺跡で発見された、髪の毛の先ほどの紐通し穴の開いたビーズや紅玉のアクセサリーがアラビア海から遥かオマーンやバーレーンに輸出されたことでしょう。
なぜなら、それらの装飾品やインダス文明特有の印章とよばれる判子がアラビア半島で沢山発見されているからです。
アラビア海の荒波の中を勇敢に向かい、メソポタミア文明の民と交流を行っていたロータルやそのほかのインダス文明の民。
インドの人は今も海外に羽ばたく人が多いです(クルーズスタッフにも)
遥か古代から、彼らは世界を飛び回り最新の情報を手に入れて、より発展していったのでしょうか。
理由はいろいろあります。
国が大きい。
インドまで行くなら、そこを越えてアフリカまで向かうことが多く日数が長いコースが多いため、乗船しにくい。
それで、なんとなくクルーズ寄港地としてのインドは、ムンバイなどの一部の町を除いて、イメージにないような気がいたします。
しかし、インドはやはり大きくて深い国でした。
いずれ、リバークルーズのお話などもさせて頂きたいのですが、今回は遥か古代、アラビア海を渡ったインド人の先祖の方々のお話です。
そう、インダス文明です。
インダス文明は、世界4大文明といわれる超有名な古代文明の一つです。
恥ずかしながら私は、このあたりの古代史は少々疎く、今回、改めて本をひっくり返して付け焼刃な勉強をしたのですが、その深さを広大さに、頭がおぼれてしまいそうでした。
インダス文明とは、現代のパキスタンからインドのの西北部にかけて、インダス河といまはかれてしまったサラスヴァーティーという河の間の肥沃な土地に広がった一大文化圏だったようです。
ざっとその大きさを見ますと日本の国土よりも遥かに広い文化圏だったことがわかります。
いま、西インドで発掘されている遺跡は二つ。
今日はその一つ、ロータル遺跡の紹介です。
いまは、海まで80?ある内陸の遺跡ですが、古代は7km程しか離れておらず、町の直ぐそばを川が流れ、それを引き込んだ船着場を造っていたと考えられています。
小さな遺跡ですが、しっかりとした大きな井戸があり、その直ぐ奥には倉庫跡、さらに奥にはアクロポリス、恐らく支配者層の邸宅跡が残ります。
歴史にしてざっと3500年前の遺構です。
乾燥した日干し煉瓦の文化は素晴らしい。そんな昔の遺構がいまもしっかり残っているのだから。
よくよく見ると、細い管のような跡が。
そう、配水管です。
お手洗いやキッチンが一列並びに設けられていたようです。
そしてその後ろを配水管が通っていたのです。

もしや水洗トイレだったのでしょうか?
さらに歩を進めると、大きなバスタブのような、多分小さな浴場とアクロポリス専用の井戸が。
インダス文明は水の管理がしっかりしていた文明だったようです。
工房跡を過ぎて市場の跡に。
7km先のアラビア海から河をつたい、異国からは様々なものが入ってきたでしょう。
そして恐らく、ロータル遺跡で発見された、髪の毛の先ほどの紐通し穴の開いたビーズや紅玉のアクセサリーがアラビア海から遥かオマーンやバーレーンに輸出されたことでしょう。
なぜなら、それらの装飾品やインダス文明特有の印章とよばれる判子がアラビア半島で沢山発見されているからです。
アラビア海の荒波の中を勇敢に向かい、メソポタミア文明の民と交流を行っていたロータルやそのほかのインダス文明の民。
インドの人は今も海外に羽ばたく人が多いです(クルーズスタッフにも)
遥か古代から、彼らは世界を飛び回り最新の情報を手に入れて、より発展していったのでしょうか。

- 煌きのアドリア海、宮殿が街になったスプリット
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エリア:
- ヨーロッパ>クロアチア>スプリット
- テーマ:観光地 クルーズ 歴史・文化・芸術
- 投稿日:2011/01/27 22:03
- コメント(0)
アドリア海沿岸に輝く、クロアチアには古代から住み心地が良かったようです。
なぜかというと、美しい旧市街が多く残っているからです。
そんないくつもある都市で、女王のや真珠との異名を取るのはドブロブニクですが、今日は古代ローマ皇帝が別荘を建てて引退後の余生を過ごした古都スプリットをご案内します。
スプリットは、海に面した街です。背後に山が迫る街で、背後から敵に侵入されにくいらしいです。というと、なんとなく源頼朝のひらいた鎌倉幕府が鎌倉を選んだ理由のようにも聞かれますが…。
スプリットはそもそも、ローマ皇帝を退位して余生にのんびり?過ごそうと思って建てられた別荘が街の始まりです。
宮殿は岸辺に作られ、船から皇帝に届けられた数々の物資が、そのまま宮殿に運び込まれていた模様です。
「模様です」というのはですね、宮殿の全てが残っているわけではないからです。
ディオクレティアヌス帝という方は、キリスト教を弾圧した方ではありますが、混乱期のローマ帝国(A.D.3世紀)で国はがたがたでした。広大すぎる領土を何とか治めるため、皇帝を正帝と副帝二人ずつの制度をつくり、ローマ帝国の寿命を伸ばしたといわれています。
彼が有能な皇帝であったことは間違いなく、その証拠がこのスプリットなのです。
彼が生きた時代のローマ帝国はいわゆる「パックスロマーナ(ローマの平和)」が終わり、軍人皇帝時代と称された頃です。
軍人なんて聞きますと強い皇帝のイメージがありますが、これは兵士に支持されて帝位についた皇帝ということです。あっちの軍団で祭り上げられた皇帝やらこっちの皇帝に祭り上げられた皇帝やらで、大げさに言いますとローマ帝国は皇帝だらけ。
50年間に26人の皇帝がいました。
ひょっとしたらもっといたかもしれません。在位平均2年。ほぼ全員暗殺されているそうです。
ローマは「パンとサーカス」で有名なように、民衆の支持を得られてこそ「帝位」を保てるのでした。軍人皇帝時代は、簡単に言ってしまいますと、それがものすごく顕著に進んでしまった事態だったといえなくもありません。
こんなローマの状態をだれもが「当たり前」と受け入れていた頃、この悪循環を破壊したのがディオクレティアヌス帝でした。当時30代後半の男盛り?でした。
皇帝の地位を高め、議員が皇帝の前で寛ぐことを認めず、皇帝の下に国を一つにまとめようと試みたのです。
残念なことに、そのために皇帝を礼賛しないキリスト教徒を認めなかったのですね。
ローマを一時的だったにせよ立て直したディオクレティアヌスは、突然退位し、自分の生まれ故郷の近くの田舎に別荘を作ったのです。それがこのスプリットでした。
彼の死後、数世紀たち、近郊の町が敵に侵略されたということで町の人がスプリットへ逃げ込み、宮殿跡にそのまま街を作ってしまいました。
立派な宮殿でしたので資源再利用ですね。
中世には教会が立てられ、時にはバルカン半島の東からイスラム教徒がやってきて、時には近隣の王国の支配下に入り、時にはヴェネチアの支配下に入り、等々時代と共に支配者が変わり、そのたびに流行が変わり、様々な建築スタイルが受け入れられたのです。
いまスプリットの街を歩いていると、ディオクレティアヌス帝が姿を現したであろうテラスにはカフェが並び、よく見ると大聖堂と呼ぶには小さなカテドラルがあります。

中世には宮殿の壁が城壁になったのがよくわかります。
様々な建築様式も楽しいですが、A.D.3世紀から現代までのときが全て凝縮しているこの中を歩くこと、そしてお買い物をすることがとても楽しいのです。
でも疲れたら、そこいらのカフェで一杯というのもいいですが、春から初夏に行くなら、ジェラートがお勧めです。

私のお気に入りはピスタチオとレモンです。
もちろんダブルも大丈夫です。
なぜかというと、美しい旧市街が多く残っているからです。
そんないくつもある都市で、女王のや真珠との異名を取るのはドブロブニクですが、今日は古代ローマ皇帝が別荘を建てて引退後の余生を過ごした古都スプリットをご案内します。
スプリットは、海に面した街です。背後に山が迫る街で、背後から敵に侵入されにくいらしいです。というと、なんとなく源頼朝のひらいた鎌倉幕府が鎌倉を選んだ理由のようにも聞かれますが…。
スプリットはそもそも、ローマ皇帝を退位して余生にのんびり?過ごそうと思って建てられた別荘が街の始まりです。
宮殿は岸辺に作られ、船から皇帝に届けられた数々の物資が、そのまま宮殿に運び込まれていた模様です。
「模様です」というのはですね、宮殿の全てが残っているわけではないからです。
ディオクレティアヌス帝という方は、キリスト教を弾圧した方ではありますが、混乱期のローマ帝国(A.D.3世紀)で国はがたがたでした。広大すぎる領土を何とか治めるため、皇帝を正帝と副帝二人ずつの制度をつくり、ローマ帝国の寿命を伸ばしたといわれています。
彼が有能な皇帝であったことは間違いなく、その証拠がこのスプリットなのです。
彼が生きた時代のローマ帝国はいわゆる「パックスロマーナ(ローマの平和)」が終わり、軍人皇帝時代と称された頃です。
軍人なんて聞きますと強い皇帝のイメージがありますが、これは兵士に支持されて帝位についた皇帝ということです。あっちの軍団で祭り上げられた皇帝やらこっちの皇帝に祭り上げられた皇帝やらで、大げさに言いますとローマ帝国は皇帝だらけ。
50年間に26人の皇帝がいました。
ひょっとしたらもっといたかもしれません。在位平均2年。ほぼ全員暗殺されているそうです。
ローマは「パンとサーカス」で有名なように、民衆の支持を得られてこそ「帝位」を保てるのでした。軍人皇帝時代は、簡単に言ってしまいますと、それがものすごく顕著に進んでしまった事態だったといえなくもありません。
こんなローマの状態をだれもが「当たり前」と受け入れていた頃、この悪循環を破壊したのがディオクレティアヌス帝でした。当時30代後半の男盛り?でした。
皇帝の地位を高め、議員が皇帝の前で寛ぐことを認めず、皇帝の下に国を一つにまとめようと試みたのです。
残念なことに、そのために皇帝を礼賛しないキリスト教徒を認めなかったのですね。
ローマを一時的だったにせよ立て直したディオクレティアヌスは、突然退位し、自分の生まれ故郷の近くの田舎に別荘を作ったのです。それがこのスプリットでした。
彼の死後、数世紀たち、近郊の町が敵に侵略されたということで町の人がスプリットへ逃げ込み、宮殿跡にそのまま街を作ってしまいました。
立派な宮殿でしたので資源再利用ですね。
中世には教会が立てられ、時にはバルカン半島の東からイスラム教徒がやってきて、時には近隣の王国の支配下に入り、時にはヴェネチアの支配下に入り、等々時代と共に支配者が変わり、そのたびに流行が変わり、様々な建築スタイルが受け入れられたのです。
いまスプリットの街を歩いていると、ディオクレティアヌス帝が姿を現したであろうテラスにはカフェが並び、よく見ると大聖堂と呼ぶには小さなカテドラルがあります。

中世には宮殿の壁が城壁になったのがよくわかります。
様々な建築様式も楽しいですが、A.D.3世紀から現代までのときが全て凝縮しているこの中を歩くこと、そしてお買い物をすることがとても楽しいのです。
でも疲れたら、そこいらのカフェで一杯というのもいいですが、春から初夏に行くなら、ジェラートがお勧めです。

私のお気に入りはピスタチオとレモンです。
もちろんダブルも大丈夫です。

- ヒマラヤの間近に迫る〜ネパール〜
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エリア:
- アジア>ネパール>ポカラ
- テーマ:観光地 ハイキング・登山 自然・植物
- 投稿日:2011/01/05 21:05
- コメント(0)
ネパールと聞いて何をイメージされますか。
「ヒマラヤの山々」と答える方が多いのではないかと思います。それもそのはず。世界には8000m級の山が14座ありますが、そのうちの、なんと8座がネパールにあり、まさにヒマラヤの国と言えるのです。
ヒマラヤといえば、今はやりの山ガールというわけではございませんが、登山を楽しむイメージが強いです。しかしながら実は山々をうんと近くで見ることが出来る遊覧飛行にトライしてきました。
遊覧飛行では、ホテルのお庭から、ハイキングで歩いている最中、下から見上げていたヒマラヤの山並みを目の高さ、もしくは眼下に臨む事が出来、スケールの大きな山並をたっぷりと楽しむことが出来ました。
アンナプルナの遊覧飛行は、ヒマラヤの懐の街ポカラから早朝に出発します。
薄暗い曇り空のため、天候が整うまでの間、空港にてしばし待機。この待ち時間の間、雲が晴れて山が見えるかどうか期待と不安で胸が高まりました。
いよいよ飛行機に乗り込み、いざ出発。プロペラは大きな音を立てて回り始め、その振動が体中に伝わると同時に高鳴る胸の鼓動が耳に聞こえるような気がしました。
飛行機が滑走路から飛び立ちポカラの大空へ!

----幾つかの雲を越えると、そこにはスカイブルーの空が広がっていました。ポカラの街が小さくなるにつれ、朝日に赤く照らされて輝くヒマラヤ山脈の頂が、どんどんと近付いてきます。
窓の外をのぞくと目の高さに、ダウラギリ(8167m)が。サンスクリット語で白い山という意味だそうですが、その名にふさわしい姿でした。
飛行機の窓には次々と白き山々の頂きが現れます。アンナプルナ?(8091m)や、魚の尻尾のような形をしているマチャプチャレ(6997m)、日本人によって初登頂されたマナスル(8156m)などの峰々を眼下に、そして間近に見ながら飛行機は進みます。
遊覧飛行の間、今回は順番に前方の窓を覗かせてもらうことが出来ました。フロントガラスからの視界は横の窓からとはまた違う光景が目の前に広がります。青い空と白い雪を湛えたヒマラヤの鮮やかなコントラスト。どこまでも続くその様は、確かに神々が座するといわれてもおかしくはありません。
約40分のフライトはあっという間に過ぎていき、我々はポカラへと降りていきました。後ろを振り返って見上げるとそこにあるヒマラヤの山々。ついさっきまであの近くを飛んでいたのに、いまやあんなに遠くに美しい姿で静かに座しているのが不思議で、そして離れるのが名残惜しい気持ちになりました。
お天気や場所、時間によって様々な表情を見せるヒマラヤ。何度見ても見飽きることのない壮大な光景は、フレームに収めるには大きすぎてしまうのです。神々の座す山はこの地に、世界中の人々を惹き付けてやまないかぐわしい花のようです。
神々の座する国ネパール。2月が近づくとネパールへ行きたくなります。
「ヒマラヤの山々」と答える方が多いのではないかと思います。それもそのはず。世界には8000m級の山が14座ありますが、そのうちの、なんと8座がネパールにあり、まさにヒマラヤの国と言えるのです。
ヒマラヤといえば、今はやりの山ガールというわけではございませんが、登山を楽しむイメージが強いです。しかしながら実は山々をうんと近くで見ることが出来る遊覧飛行にトライしてきました。
遊覧飛行では、ホテルのお庭から、ハイキングで歩いている最中、下から見上げていたヒマラヤの山並みを目の高さ、もしくは眼下に臨む事が出来、スケールの大きな山並をたっぷりと楽しむことが出来ました。
アンナプルナの遊覧飛行は、ヒマラヤの懐の街ポカラから早朝に出発します。
薄暗い曇り空のため、天候が整うまでの間、空港にてしばし待機。この待ち時間の間、雲が晴れて山が見えるかどうか期待と不安で胸が高まりました。
いよいよ飛行機に乗り込み、いざ出発。プロペラは大きな音を立てて回り始め、その振動が体中に伝わると同時に高鳴る胸の鼓動が耳に聞こえるような気がしました。
飛行機が滑走路から飛び立ちポカラの大空へ!

----幾つかの雲を越えると、そこにはスカイブルーの空が広がっていました。ポカラの街が小さくなるにつれ、朝日に赤く照らされて輝くヒマラヤ山脈の頂が、どんどんと近付いてきます。
窓の外をのぞくと目の高さに、ダウラギリ(8167m)が。サンスクリット語で白い山という意味だそうですが、その名にふさわしい姿でした。
飛行機の窓には次々と白き山々の頂きが現れます。アンナプルナ?(8091m)や、魚の尻尾のような形をしているマチャプチャレ(6997m)、日本人によって初登頂されたマナスル(8156m)などの峰々を眼下に、そして間近に見ながら飛行機は進みます。
遊覧飛行の間、今回は順番に前方の窓を覗かせてもらうことが出来ました。フロントガラスからの視界は横の窓からとはまた違う光景が目の前に広がります。青い空と白い雪を湛えたヒマラヤの鮮やかなコントラスト。どこまでも続くその様は、確かに神々が座するといわれてもおかしくはありません。
約40分のフライトはあっという間に過ぎていき、我々はポカラへと降りていきました。後ろを振り返って見上げるとそこにあるヒマラヤの山々。ついさっきまであの近くを飛んでいたのに、いまやあんなに遠くに美しい姿で静かに座しているのが不思議で、そして離れるのが名残惜しい気持ちになりました。
お天気や場所、時間によって様々な表情を見せるヒマラヤ。何度見ても見飽きることのない壮大な光景は、フレームに収めるには大きすぎてしまうのです。神々の座す山はこの地に、世界中の人々を惹き付けてやまないかぐわしい花のようです。
神々の座する国ネパール。2月が近づくとネパールへ行きたくなります。

- 黒海の真珠ヤルタの魅力
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エリア:
- ヨーロッパ>ウクライナ>ヤルタ
- テーマ:観光地 クルーズ 歴史・文化・芸術
- 投稿日:2010/12/24 16:38
- コメント(0)
2010年5月、ウクライナという黒海が南に面する旧ソ連の国へ行ってまいりました。
ウクライナの人たちは、底抜けに明るい気質の持ち主だそうですが、ツアー中感じたのは、お客様に楽しんでもらおう、ウクライナを知ってもらいたい、という暖かなホスピタリティ精神でした。
そんなあったかな国ウクライナの中でも特に暖かく、リゾート地として人気なのがヤルタ。
「黒海の真珠」と呼ばれ、ロシア人が愛してやまない街です。
タイトル画像はヤルタの町を遠望したもの。黒海は太陽の光でやや青みがかった色合いでとても神秘的でした。ではそんな美しいヤルタをご紹介いたします。
ヤルタは昔から別荘地、保養地として特にロシア人が愛した街でした。歴史の皮肉で、ソ連時代にウクライナ領となり、そのままウクライナとして、ソ連崩壊と同時に独立してしまいましたが、今でもロシア人が多数派です(国籍はウクライナでも)ので、クリミア半島だけでの独立も考えたんだそうです。
いろいろありまして、今はクリミア自治共和国となっているのだそうです。

さて、写真の断崖絶壁に残るこの建物は、20世紀初頭にドイツ人のオイル王が自分の愛したジプシー娘のために造った別荘だったそうですが、ジプシー娘には振られてしまったという、ちょっと悲しい別荘です。なぜこんなところにあるかは、現地でガイドさんの話を聞いていただけると幸いです。
いま私が話してしまうと、ヤルタのガイドさんに申し訳がないですしね。
そしてヤルタといえば、日本人なら絶対誰もが一度は(多分)耳にしたことがあるはずです。
そう、あのヤルタ会談が行われたところです。

というわけで、その会談が行われたリバディア宮殿へ訪れました。写真は、スターリンさんとルーズベルトさんが日本侵攻に関する密約を行った場所です。ここから、かの北方領土問題がうまれたのか〜と感慨深い思いになりました。

そして、3巨頭のひとりチャーチルさんが宿泊していたアルプカ宮殿にはいまもチャーチルさんがお休みでした。
このライオン像は、チャーチルさん自ら「私にそっくり」と大変お気に入りだったそうです。
この宮殿はお金持ちの貴族の別荘として造られましたけど、イギリスとアラブの様式がミックスされた、異国情緒あふれ出る建築で、訪れた人を魅了していました。


しかも、温室があるのですが、大理石の彫刻と緑の美しいコントラストに誰もが足を止めてしまいました。
ちなみにオクにある女の子の全身像の彫刻はイタリアのかの有名な彫刻家ベルニーニの作です。
そして、ダイニング。広々としてなんともまぁ開放的。
ヤルタは太陽の光があふれ、人々も陽気で、ロシア貴族たちがココへ訪れる気持ちがよくわかりました。
ロマノフ王朝最後の皇帝ニコライ2世も、リバディア宮殿を造ったのですけど、退位した後、この宮殿で隠遁生活をおくりたいと考えていたようです。
秋から春にかけて、お召し列車とボートでヤルタへ訪れた皇帝一家は、激動の時代にこの暖かい地でひと時の安らぎを求めていたのかもしれません。リバディア宮殿には皇帝一家が残した多くの写真の一部が残っています。
残念ながら、1914年の春を最後に、皇帝一家はヤルタへ戻ることはなく、銃殺されてしまったのですが…。
保養地として、リゾート地として美しいヤルタは人気があります。
また、交易の港としても栄えていました。
タタール人といわれる、モンゴル系の人々やトルコ系の人々、ウクライナ人にロシア人、多くの人が行きかう街です。
遥か昔のギリシア神話でも、「アルゴー号」という船が漂流しているときにようやっと見つけた海岸線に感動し「ヤロース」、海岸線、と叫んだんだそうですが、それが名前の由来なんだそうです。
黒海の真珠ヤルタ、一度は訪れてみる価値があります。
ウクライナの人たちは、底抜けに明るい気質の持ち主だそうですが、ツアー中感じたのは、お客様に楽しんでもらおう、ウクライナを知ってもらいたい、という暖かなホスピタリティ精神でした。
そんなあったかな国ウクライナの中でも特に暖かく、リゾート地として人気なのがヤルタ。
「黒海の真珠」と呼ばれ、ロシア人が愛してやまない街です。
タイトル画像はヤルタの町を遠望したもの。黒海は太陽の光でやや青みがかった色合いでとても神秘的でした。ではそんな美しいヤルタをご紹介いたします。
ヤルタは昔から別荘地、保養地として特にロシア人が愛した街でした。歴史の皮肉で、ソ連時代にウクライナ領となり、そのままウクライナとして、ソ連崩壊と同時に独立してしまいましたが、今でもロシア人が多数派です(国籍はウクライナでも)ので、クリミア半島だけでの独立も考えたんだそうです。
いろいろありまして、今はクリミア自治共和国となっているのだそうです。

さて、写真の断崖絶壁に残るこの建物は、20世紀初頭にドイツ人のオイル王が自分の愛したジプシー娘のために造った別荘だったそうですが、ジプシー娘には振られてしまったという、ちょっと悲しい別荘です。なぜこんなところにあるかは、現地でガイドさんの話を聞いていただけると幸いです。
いま私が話してしまうと、ヤルタのガイドさんに申し訳がないですしね。
そしてヤルタといえば、日本人なら絶対誰もが一度は(多分)耳にしたことがあるはずです。
そう、あのヤルタ会談が行われたところです。

というわけで、その会談が行われたリバディア宮殿へ訪れました。写真は、スターリンさんとルーズベルトさんが日本侵攻に関する密約を行った場所です。ここから、かの北方領土問題がうまれたのか〜と感慨深い思いになりました。

そして、3巨頭のひとりチャーチルさんが宿泊していたアルプカ宮殿にはいまもチャーチルさんがお休みでした。
このライオン像は、チャーチルさん自ら「私にそっくり」と大変お気に入りだったそうです。
この宮殿はお金持ちの貴族の別荘として造られましたけど、イギリスとアラブの様式がミックスされた、異国情緒あふれ出る建築で、訪れた人を魅了していました。


しかも、温室があるのですが、大理石の彫刻と緑の美しいコントラストに誰もが足を止めてしまいました。
ちなみにオクにある女の子の全身像の彫刻はイタリアのかの有名な彫刻家ベルニーニの作です。
そして、ダイニング。広々としてなんともまぁ開放的。
ヤルタは太陽の光があふれ、人々も陽気で、ロシア貴族たちがココへ訪れる気持ちがよくわかりました。
ロマノフ王朝最後の皇帝ニコライ2世も、リバディア宮殿を造ったのですけど、退位した後、この宮殿で隠遁生活をおくりたいと考えていたようです。
秋から春にかけて、お召し列車とボートでヤルタへ訪れた皇帝一家は、激動の時代にこの暖かい地でひと時の安らぎを求めていたのかもしれません。リバディア宮殿には皇帝一家が残した多くの写真の一部が残っています。
残念ながら、1914年の春を最後に、皇帝一家はヤルタへ戻ることはなく、銃殺されてしまったのですが…。
保養地として、リゾート地として美しいヤルタは人気があります。
また、交易の港としても栄えていました。
タタール人といわれる、モンゴル系の人々やトルコ系の人々、ウクライナ人にロシア人、多くの人が行きかう街です。
遥か昔のギリシア神話でも、「アルゴー号」という船が漂流しているときにようやっと見つけた海岸線に感動し「ヤロース」、海岸線、と叫んだんだそうですが、それが名前の由来なんだそうです。
黒海の真珠ヤルタ、一度は訪れてみる価値があります。
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