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- ホテル・宿泊
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今回ルーマニア、ブルガリア、セルビアを訪れる機会を得ました。美しすぎる古城、教会に残る素晴らしいフレスコ画の数々には感動しましたが、それ以上に、今回の出張では歴史のターニングポイントとなった数々のゆかりの地を訪れたことがとても感慨深く、貴重な訪問となりましたので、以下その点を中心にご紹介いたします。
ルーマニア革命の象徴「国民の館」
皆さんはルーマニアについてどんなイメージをお持ちだろうか。私は今回訪問するまで全くといっていいほどイメージがなく、知っていたことといえば、ビートたけしのギャグでお馴染みの体操選手「コマネチ」の出身国であることぐらいでした。しかしこの国を語る上で決して忘れてはいけない出来事があります。1989年のルーマニア革命です。好き放題の独裁政治を行い国民を苦しめていた、ルーマニアの独裁者ニコラエ・チャウシェスク大統領夫妻(当時)が最終的には公開処刑され、独裁者による共産主義国家ルーマニアが民主化された革命的出来事です。当時まだ中学生だった私は、なぜ彼らが処刑されなければならなかったのか、ことの詳細までは知りませんでしたが、当時はベルリンの壁崩壊等一連の東欧革命の真っただ中にある激動の時代で、TVで処刑されたチャウシェスク夫妻の遺体の映像を観て、独裁者の処刑という展開に強い衝撃を受けた記憶があります。
そのチャウシェスクが巨費を投じて造らせた宮殿が「国民の館」です。建造費用1,500億円、 地上10階、地下4階、部屋数3,000以上、エレベータ50基、クリスタルのシャンデリア3,000基、地下トンネル。これは米国防省のペンタゴンに次いでこの世で2番目に大きい建造物(延床面積616,540m²)だ。国民の館の正面に伸びる通りは、パリのシャンゼリゼ大通りを模したが、幅が6メートル広くなってしまったという逸話も。これと言った産業のないルーマニアという国の象徴としては、あまりにも巨大な建物である。よくこれだけ大きな建物をさしたる目的もなく造ったものだと感心してしまう。この建物のために費やした税金はあまりにも莫大で、それによってルーマニア経済はひっ迫し、国民が困窮を強いられたというのだから巨費を投じて造らせた宮殿が「国民の館」などという名前を付けられているのは、皮肉以外の何者でもない。「国民の館」と名前が付けられているが、これは「チャウシェスクの館」と言ってもいい。何しろチャウシェスクの自己顕示のためだけに、建設された館だから。
チャウシェスクへの不満が溜まった国民は、1989年に革命を起こします。チャウシェスクのいる建物の前に国民が集まり暴動を起こし、逃げ場を失ったチャウシェスクは、ヘリコプターでビルの屋上から脱出します。当時の人は「彼はジェームズボンドの様ように逃げた」と言っていたそうですがそれくらい印象に残る逃げ方です。ちなみに、ヘリコプターで逃げたものの後に捕まり、チャウシェスクの夫婦共ども処刑されています。当時の国民は権力の前でただひれ伏すだけでなく、ルーマニア革命の元にチャウシェスクを処刑に追い込んだのです。ルーマニア革命はCIA(アメリカの中央情報局)が扇動したとの噂もありますが、実際に革命に至ったのはルーマニアの国民です。そういう意味で「国民の館」はルーマニア革命の象徴的建物の1つといえます。
しかしそれも過去のことで、現在建物の内部は有料で一般公開されています。現在でも国会議事堂として機能していて、コンサートやパーティーなども行われている。あまりの広さ故に、あのマイケルジャクソンもここで演説をしています。見学を先導してくれた英語ガイドさんによると、国民の館に延びるシャンゼリゼ通り!マイケルジャクソンはこの広場に集まった人たちに向かって「ハロー・ブダペスト」と叫んだそうです(ここブダペストじゃなくてブカレストだよと突っ込みたくなりますね)。独裁時代の名残の建造物が観光資源とは、なんとも感慨深いものがあります。あまりに大きい国民の館を実際に目の当たりにしてみると、先人の苦労が伝わってきます。
様々な複雑な思いを胸にブカレスト郊外にあるチャウシェスク夫妻の墓参りもしてきました。一国の大統領であった人ですが、近隣にあるお墓と同じくらいの大きさ。けれど、合葬のお披露目の際にはルーマニア国旗の三色の花飾りが備えられ、三色旗のリボンで飾られていたそうです。大統領であったとはいえ、旧体制の独裁リーダーとして追放され、処刑された人。けれども、はなむけの飾りは、ルーマニア国家をあらわす赤・黄・青。国民の複雑な思いが感じられます。
1999年12月、革命10周年に当たって行なわれた世論調査によると6割を超えるルーマア国民が「チャウシェスク政権下の方が現在よりも生活が楽だった」と答えたとか(ウィキペディア参照)。 頻発するストライキでは、「我々はとりあえず自由を手に入れた。次は幸福を手にする番だ」というスローガンも見られたそうですが、未だその幸福を多くの国民が実感していないようです。
是非、東欧に行く機会がありましたらこの巨大な建物を訪れて独裁者を処刑に追い込んだ国民の想いと激動の歴史をを感じてみてください。
ブルガリア独立のきっかけとなったお伽の村コプリフシティツァ
ブルガリアの最も美しい村として国内外に知られている「コプリフシティツァ」は「美術館都市」と呼ばれ、国内からも人が集まる有名な観光地です。14世紀にオスマンの侵入で土地を追われた人達が、隠れ住んだ村で、18世紀頃から商業で街は潤い、スルタン(皇帝)からも軽減と武器の所有を許されていた。19世紀前半から半ばにかけて、商人達が競って様々な建築様式で建てられた家々が、今もそのまま残っている。そのうち6軒の屋敷が、「ハウスミュージアム」として保存・公開されている。いわば村の家並みがそのまま美術館だ。非常にカラフルな家が多く、“お伽の村”とも言われています。まるで中世で時間が止まったような町です。ガイドさんによると、19世紀、ここには羊飼いがたくさんいて、羊毛の貿易で栄えた。豪商が集まり、壮麗豪華な屋敷を建てたという。6軒の一つ、「オスレコフ・ハウス」でも、玄関の柱にレバノンから運んだ杉がぜいたくに使われている。瓦屋根に木枠の窓は東洋的だが、外壁には色鮮やかな絵や彫刻。それが不思議にマッチしている。
「家並みだけじゃありません。この村はブルガリア人にとって、特別の場所なんです」。
それはなぜか。この村がブルガリアの独立運動の口火を切った場所だからです。
オスマン帝国の支配下にあったブルガリアでは、18世紀後半になると民族解放運動の担い手たちが台頭するようになった。経済的な自立を背景に、西欧やロシアの思想の影響を受けた彼らは「独立」という目標を掲げ、具体的な行動を起こす。そして1876年4月、ここコプリフシティツァで発せられた1発の銃声を合図に、ついに「四月蜂起」が勃発したのだ。屈強なトルコ軍を銃で撃ちその血で“血判状を書き”近隣の町へ馬を駆け配りました。四月蜂起の首謀者ゲオルギ・ベンコフスキをはじめとした四月蜂起の首謀者達もこの町出身で、ブルガリア人にとっては英雄が出た憧れの美しい村なのだ。4月蜂起自体は3か月程度で鎮圧され失敗に終わり、屋敷の主だった首謀者達も逮捕されましたが、この蜂起を契機に、オスマン・トルコ政権からの独立運動は盛り上がりをみせ独立を勝ち取る道筋ができていくのです。「この村の人が勇気を出して立ち上がらなかったらブルガリアは独立できなかったかもしれない」とも言われます。よってこの村はブルガリア人にとって、特別の場所なんです。
それから百数十年。村の人々は英雄たちの屋敷を修復し、当時のままに残してきた。革命への思いがヨーグルトのように、脈々と受け継がれているからに違いない。
その英雄達の生家が「歴史資料博物館」として当時使用されていた家具・調度類・服・武器等が展示されています。
陽光が降り注ぐ山間ののどかな町並み。思い思いの意匠が凝らされた民族復興様式のカラフルな家々が立ち並ぶ石畳の道には、そんなのどかさとは裏腹にブルガリア人の「抵抗」の足跡に触れたような気がして今回の訪問は感慨深いものがありました。ブルガリアの歴史上重要な役割をはたしたこの村は、決して派手さはありませんが是非訪れてほしい場所の1つです。当時の詳細はイワン・ヴァーゾフの「軛の下で」を参照されたい。
コンスタンティヌス大帝生誕の地に佇む負の遺産ドクロの塔-スカルタワー
セルビア第3の都市ニシュは人口約25万人で、バルカン半島最古の町の一つ。ヨーロッパと中東を結ぶ交通の要衝で、ブルガリアのソフィア、マケドニアのスコピエ、セルビアのベオグラードを結ぶ結節点に位置しています。 コンスタンティノープルを創建した最初のキリスト教徒のローマ皇帝コンスタンティヌス1世の生誕地としてあまりにも有名ですが、セルビア人軍勢が初めてオスマン帝国に対して蜂起した「チェガルの戦い」があった歴史的に重要な場所であることも忘れてはなりません。
交通の要所であったことから、ニシュは現代に至るまで様々な民族から繰り返し攻撃を受け占領されました。その中でオスマン・トルコの支配化の時代に、勇気を振り絞って反旗を翻したクーデター、それが「チェガルの戦い」です。1809年、トルコからの解放を目指した蜂起の中、チェガル丘で1万人のトルコ軍に対し3千人で戦いに挑みました。トルコ軍はオスマン・トルコの圧制に反旗を翻した反乱軍を容赦なく惨殺し、後世への見せしめのため、なんと反乱軍の頭蓋骨952個で塔を築かせました。その塔は「チェレ・クラ」と呼ばれ、ニシュの町はずれに今も残っています。反乱の見せしめとはいえ、ひどいことを考えるものです。昔の骸骨塔は屋外にむき出しのまま建っていました。よって犠牲者の親族が頭蓋骨を持ち帰ったり、風雨によって転がり落ちてしまうことも多かったそうです。そうしたことから現在空になった穴が多く、今、残っているのは56個だそうです。上部がかなり崩れ、崩壊しそうだったので塔は現在建物で覆われています。
建物の中へ入ると、髑髏がずらっと並んでいます。この塔の存在をガイドブックで知った衝撃は今でも忘れませんが、実物はもっと強烈でした。レプリカではなく、正真正銘本物のスカルです。手を合わせずにはいられません。しばし合掌。
よく見ると、刀傷が眉間に残る頭蓋骨もありました。その横にはピストルの弾が撃ち込まれた頭蓋骨も…。よく観察するとサイズが違うことに気が付きます。小さい頭蓋骨もあります。若い反乱兵もいたんでしょうね。かつて塔の最上部には反乱軍を率いた司令官ステバン・シンジェリッチの頭蓋骨が置かれていたとのこと。彼の頭蓋骨から剥がした頭皮は綿を詰め、イスタンブールに送られたそうです。
トルコ軍との戦いには負けはしましたが部下とともに戦って戦死した彼の勇気ある行動は、セルビア人の心にいまだに残る英雄的行為です。負の遺産ではありますが歴史の過酷さを伝えるこの記念碑は必見です。
悪魔の塔アボリジャバロとはなにか
セルビア南東部ラダン山の斜面にある、岩が搭状に202本連なって経っている景勝地です。アボリジャバロとはセルビア語で「悪魔の街」という意味で、尖塔上の奇岩が広がる様がまるで悪魔の住むところのようなところから、このような名前が付けられ、「世界の自然七不思議」の候補にもなりました。岩の高さは2mのものから15m、根元の直径は4〜6mほどの尖塔上の奇岩が202本ある。数千年前に火山の激しい噴火活動があり、火山灰などの柔らかい土が積もり、雨などの浸食により形成されたようです。「赤の煮え湯」「悪魔の水」と呼ばれる、2つのとても強い炭酸の湧き水も出ており、周辺には温泉もあります。新たなセルビアの観光地・世界遺産暫定リストとして登録が待たれます。同様の尖塔上の奇岩の景勝地として知られトルコのカッパドキアとはまた違った雰囲気を持っており、セルビアを訪れた際は是非訪れたい場所の1つです。
おすすめポイント
スカルタワー ★★★★
アボリジャバロ ★★★
コプリフシティツァ ★★★
国民の館 ★★★
(2016年5月 渡邊竜一)
ルーマニア革命の象徴「国民の館」
国民の館(ブカレスト)
国民の館(ブカレスト)
皆さんはルーマニアについてどんなイメージをお持ちだろうか。私は今回訪問するまで全くといっていいほどイメージがなく、知っていたことといえば、ビートたけしのギャグでお馴染みの体操選手「コマネチ」の出身国であることぐらいでした。しかしこの国を語る上で決して忘れてはいけない出来事があります。1989年のルーマニア革命です。好き放題の独裁政治を行い国民を苦しめていた、ルーマニアの独裁者ニコラエ・チャウシェスク大統領夫妻(当時)が最終的には公開処刑され、独裁者による共産主義国家ルーマニアが民主化された革命的出来事です。当時まだ中学生だった私は、なぜ彼らが処刑されなければならなかったのか、ことの詳細までは知りませんでしたが、当時はベルリンの壁崩壊等一連の東欧革命の真っただ中にある激動の時代で、TVで処刑されたチャウシェスク夫妻の遺体の映像を観て、独裁者の処刑という展開に強い衝撃を受けた記憶があります。
そのチャウシェスクが巨費を投じて造らせた宮殿が「国民の館」です。建造費用1,500億円、 地上10階、地下4階、部屋数3,000以上、エレベータ50基、クリスタルのシャンデリア3,000基、地下トンネル。これは米国防省のペンタゴンに次いでこの世で2番目に大きい建造物(延床面積616,540m²)だ。国民の館の正面に伸びる通りは、パリのシャンゼリゼ大通りを模したが、幅が6メートル広くなってしまったという逸話も。これと言った産業のないルーマニアという国の象徴としては、あまりにも巨大な建物である。よくこれだけ大きな建物をさしたる目的もなく造ったものだと感心してしまう。この建物のために費やした税金はあまりにも莫大で、それによってルーマニア経済はひっ迫し、国民が困窮を強いられたというのだから巨費を投じて造らせた宮殿が「国民の館」などという名前を付けられているのは、皮肉以外の何者でもない。「国民の館」と名前が付けられているが、これは「チャウシェスクの館」と言ってもいい。何しろチャウシェスクの自己顕示のためだけに、建設された館だから。
贅を尽くした国民の館(ブカレスト)
贅を尽くした国民の館(ブカレスト)
チャウシェスクへの不満が溜まった国民は、1989年に革命を起こします。チャウシェスクのいる建物の前に国民が集まり暴動を起こし、逃げ場を失ったチャウシェスクは、ヘリコプターでビルの屋上から脱出します。当時の人は「彼はジェームズボンドの様ように逃げた」と言っていたそうですがそれくらい印象に残る逃げ方です。ちなみに、ヘリコプターで逃げたものの後に捕まり、チャウシェスクの夫婦共ども処刑されています。当時の国民は権力の前でただひれ伏すだけでなく、ルーマニア革命の元にチャウシェスクを処刑に追い込んだのです。ルーマニア革命はCIA(アメリカの中央情報局)が扇動したとの噂もありますが、実際に革命に至ったのはルーマニアの国民です。そういう意味で「国民の館」はルーマニア革命の象徴的建物の1つといえます。
しかしそれも過去のことで、現在建物の内部は有料で一般公開されています。現在でも国会議事堂として機能していて、コンサートやパーティーなども行われている。あまりの広さ故に、あのマイケルジャクソンもここで演説をしています。見学を先導してくれた英語ガイドさんによると、国民の館に延びるシャンゼリゼ通り!マイケルジャクソンはこの広場に集まった人たちに向かって「ハロー・ブダペスト」と叫んだそうです(ここブダペストじゃなくてブカレストだよと突っ込みたくなりますね)。独裁時代の名残の建造物が観光資源とは、なんとも感慨深いものがあります。あまりに大きい国民の館を実際に目の当たりにしてみると、先人の苦労が伝わってきます。
様々な複雑な思いを胸にブカレスト郊外にあるチャウシェスク夫妻の墓参りもしてきました。一国の大統領であった人ですが、近隣にあるお墓と同じくらいの大きさ。けれど、合葬のお披露目の際にはルーマニア国旗の三色の花飾りが備えられ、三色旗のリボンで飾られていたそうです。大統領であったとはいえ、旧体制の独裁リーダーとして追放され、処刑された人。けれども、はなむけの飾りは、ルーマニア国家をあらわす赤・黄・青。国民の複雑な思いが感じられます。
1999年12月、革命10周年に当たって行なわれた世論調査によると6割を超えるルーマア国民が「チャウシェスク政権下の方が現在よりも生活が楽だった」と答えたとか(ウィキペディア参照)。 頻発するストライキでは、「我々はとりあえず自由を手に入れた。次は幸福を手にする番だ」というスローガンも見られたそうですが、未だその幸福を多くの国民が実感していないようです。
是非、東欧に行く機会がありましたらこの巨大な建物を訪れて独裁者を処刑に追い込んだ国民の想いと激動の歴史をを感じてみてください。
チャウシェスクの墓(ブカレスト郊外)
チャウシェスクの墓(ブカレスト郊外)
ブルガリア独立のきっかけとなったお伽の村コプリフシティツァ
カブレシュコフの家(コプリフシティツァ)
石畳が似合うコプリフシティツァの村(コプリフシティツァ)
カブレシュコフの家(コプリフシティツァ)
4月蜂起の様子を伝える絵(コプリフシティツァ)
4月蜂起の様子を伝える絵(コプリフシティツァ)
4月蜂起記念碑(コプリフシティツァ)
ブルガリアの最も美しい村として国内外に知られている「コプリフシティツァ」は「美術館都市」と呼ばれ、国内からも人が集まる有名な観光地です。14世紀にオスマンの侵入で土地を追われた人達が、隠れ住んだ村で、18世紀頃から商業で街は潤い、スルタン(皇帝)からも軽減と武器の所有を許されていた。19世紀前半から半ばにかけて、商人達が競って様々な建築様式で建てられた家々が、今もそのまま残っている。そのうち6軒の屋敷が、「ハウスミュージアム」として保存・公開されている。いわば村の家並みがそのまま美術館だ。非常にカラフルな家が多く、“お伽の村”とも言われています。まるで中世で時間が止まったような町です。ガイドさんによると、19世紀、ここには羊飼いがたくさんいて、羊毛の貿易で栄えた。豪商が集まり、壮麗豪華な屋敷を建てたという。6軒の一つ、「オスレコフ・ハウス」でも、玄関の柱にレバノンから運んだ杉がぜいたくに使われている。瓦屋根に木枠の窓は東洋的だが、外壁には色鮮やかな絵や彫刻。それが不思議にマッチしている。
「家並みだけじゃありません。この村はブルガリア人にとって、特別の場所なんです」。
それはなぜか。この村がブルガリアの独立運動の口火を切った場所だからです。
オスマン帝国の支配下にあったブルガリアでは、18世紀後半になると民族解放運動の担い手たちが台頭するようになった。経済的な自立を背景に、西欧やロシアの思想の影響を受けた彼らは「独立」という目標を掲げ、具体的な行動を起こす。そして1876年4月、ここコプリフシティツァで発せられた1発の銃声を合図に、ついに「四月蜂起」が勃発したのだ。屈強なトルコ軍を銃で撃ちその血で“血判状を書き”近隣の町へ馬を駆け配りました。四月蜂起の首謀者ゲオルギ・ベンコフスキをはじめとした四月蜂起の首謀者達もこの町出身で、ブルガリア人にとっては英雄が出た憧れの美しい村なのだ。4月蜂起自体は3か月程度で鎮圧され失敗に終わり、屋敷の主だった首謀者達も逮捕されましたが、この蜂起を契機に、オスマン・トルコ政権からの独立運動は盛り上がりをみせ独立を勝ち取る道筋ができていくのです。「この村の人が勇気を出して立ち上がらなかったらブルガリアは独立できなかったかもしれない」とも言われます。よってこの村はブルガリア人にとって、特別の場所なんです。
それから百数十年。村の人々は英雄たちの屋敷を修復し、当時のままに残してきた。革命への思いがヨーグルトのように、脈々と受け継がれているからに違いない。
その英雄達の生家が「歴史資料博物館」として当時使用されていた家具・調度類・服・武器等が展示されています。
陽光が降り注ぐ山間ののどかな町並み。思い思いの意匠が凝らされた民族復興様式のカラフルな家々が立ち並ぶ石畳の道には、そんなのどかさとは裏腹にブルガリア人の「抵抗」の足跡に触れたような気がして今回の訪問は感慨深いものがありました。ブルガリアの歴史上重要な役割をはたしたこの村は、決して派手さはありませんが是非訪れてほしい場所の1つです。当時の詳細はイワン・ヴァーゾフの「軛の下で」を参照されたい。
デベリャノフの家(コプリフシティツァ)
デベリャノフの家(コプリフシティツァ)
コンスタンティヌス大帝生誕の地に佇む負の遺産ドクロの塔-スカルタワー
セルビア蜂起のシンボルドクロの塔-スカルタワーにて(ニシュ近郊)
セルビア蜂起のシンボルドクロの塔-スカルタワー(ニシュ近郊)
セルビア蜂起のシンボルドクロの塔-スカルタワー(ニシュ近郊)
セルビア第3の都市ニシュは人口約25万人で、バルカン半島最古の町の一つ。ヨーロッパと中東を結ぶ交通の要衝で、ブルガリアのソフィア、マケドニアのスコピエ、セルビアのベオグラードを結ぶ結節点に位置しています。 コンスタンティノープルを創建した最初のキリスト教徒のローマ皇帝コンスタンティヌス1世の生誕地としてあまりにも有名ですが、セルビア人軍勢が初めてオスマン帝国に対して蜂起した「チェガルの戦い」があった歴史的に重要な場所であることも忘れてはなりません。
交通の要所であったことから、ニシュは現代に至るまで様々な民族から繰り返し攻撃を受け占領されました。その中でオスマン・トルコの支配化の時代に、勇気を振り絞って反旗を翻したクーデター、それが「チェガルの戦い」です。1809年、トルコからの解放を目指した蜂起の中、チェガル丘で1万人のトルコ軍に対し3千人で戦いに挑みました。トルコ軍はオスマン・トルコの圧制に反旗を翻した反乱軍を容赦なく惨殺し、後世への見せしめのため、なんと反乱軍の頭蓋骨952個で塔を築かせました。その塔は「チェレ・クラ」と呼ばれ、ニシュの町はずれに今も残っています。反乱の見せしめとはいえ、ひどいことを考えるものです。昔の骸骨塔は屋外にむき出しのまま建っていました。よって犠牲者の親族が頭蓋骨を持ち帰ったり、風雨によって転がり落ちてしまうことも多かったそうです。そうしたことから現在空になった穴が多く、今、残っているのは56個だそうです。上部がかなり崩れ、崩壊しそうだったので塔は現在建物で覆われています。
建物の中へ入ると、髑髏がずらっと並んでいます。この塔の存在をガイドブックで知った衝撃は今でも忘れませんが、実物はもっと強烈でした。レプリカではなく、正真正銘本物のスカルです。手を合わせずにはいられません。しばし合掌。
よく見ると、刀傷が眉間に残る頭蓋骨もありました。その横にはピストルの弾が撃ち込まれた頭蓋骨も…。よく観察するとサイズが違うことに気が付きます。小さい頭蓋骨もあります。若い反乱兵もいたんでしょうね。かつて塔の最上部には反乱軍を率いた司令官ステバン・シンジェリッチの頭蓋骨が置かれていたとのこと。彼の頭蓋骨から剥がした頭皮は綿を詰め、イスタンブールに送られたそうです。
トルコ軍との戦いには負けはしましたが部下とともに戦って戦死した彼の勇気ある行動は、セルビア人の心にいまだに残る英雄的行為です。負の遺産ではありますが歴史の過酷さを伝えるこの記念碑は必見です。
司令官ステバン・シンジェリッチの頭蓋骨(ニシュ近郊)
スカルタワーを守る礼拝堂(ニシュ近郊)
コンスタンティヌス大帝生誕の地を記す記念碑と要塞跡にて(ニシュ)
悪魔の塔アボリジャバロとはなにか
悪魔の塔アボリジャバロ(アボリジャバロ)
セルビア南東部ラダン山の斜面にある、岩が搭状に202本連なって経っている景勝地です。アボリジャバロとはセルビア語で「悪魔の街」という意味で、尖塔上の奇岩が広がる様がまるで悪魔の住むところのようなところから、このような名前が付けられ、「世界の自然七不思議」の候補にもなりました。岩の高さは2mのものから15m、根元の直径は4〜6mほどの尖塔上の奇岩が202本ある。数千年前に火山の激しい噴火活動があり、火山灰などの柔らかい土が積もり、雨などの浸食により形成されたようです。「赤の煮え湯」「悪魔の水」と呼ばれる、2つのとても強い炭酸の湧き水も出ており、周辺には温泉もあります。新たなセルビアの観光地・世界遺産暫定リストとして登録が待たれます。同様の尖塔上の奇岩の景勝地として知られトルコのカッパドキアとはまた違った雰囲気を持っており、セルビアを訪れた際は是非訪れたい場所の1つです。
悪魔の塔アボリジャバロ(アボリジャバロ)
「悪魔の水」(アボリジャバロ)
「悪魔の水」(アボリジャバロ)
おすすめポイント
スカルタワー ★★★★
アボリジャバロ ★★★
コプリフシティツァ ★★★
国民の館 ★★★
(2016年5月 渡邊竜一)