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- 「死にゆく町」チヴィタ・ディ・バーニョレッジョ
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エリア:
- ヨーロッパ>イタリア
- テーマ:歴史・文化・芸術 自然・植物
- 投稿日:2011/01/02 12:49
- コメント(3)
イタリアに丘の上の街はたくさんあるが、このチヴィタ・ディ・バーニョレッジョほど印象的な光景はそうない。
なにせ、崖ぎりぎりに家を建てたのではなく、台地が周囲からどんどん崩落していってこの光景を出現させたのだから。

崩落はきのう今日にはじまった事ではない。古代エトルリア時代に町が出来てから、現代まで絶え間なく続いてきた。町で売られているガイドブックによれば、これまでに三分の一の地面が崩落し消滅したと推察されている。
※以降の記事内容、図版はそのガイドブックから
以下は15世紀以降はっきりしている崩落箇所の図。

地図上、上の斜線は1466-1469に、右は1450-1695年にかけて、下は1661年に崩落したエリア。
ピンク色は1705年、水色は1829年、茶色は1869年に消滅。
実際に町に入ってみると、門を入るとすぐに崩落しているような家も見かける。
この町出身の最も有名な人物、13世紀の聖ボナベントゥラの家と言われるものも下のような状態になっている。

本当の彼の家はこの先にあって16世紀には巡礼地になっていたが、崩落して消滅してしまった。
さらに資料を読んでいくと、現在コンクリートの橋がかかっているあたりには、現在まったく痕跡さえ残さず崩落・消滅してしまった修道院・教会があったと分かった。下は1765年にその修道院が状況を説明する為にローマ法王庁に送った図面。

左側がチヴィタ地区、右側が現在主要な町になっているバーニョレッジョ。その中間にフランチェスコ修道院・教会があり、地面にたくさんの亀裂が走っている様子が危機的に描かれている。
下の写真のどこにもその痕跡はみつからない。聖ボナベントゥラも学んだという修道院は永遠に消滅してしまったのである。なんという激しい崩落だろう。

さらに、ローマへの絵図面と下の写真に写るチヴィタへの入り口の様子がどうも違うのが気になった。チヴィタへの入り口に教会が描かれているが、今はないのはなぜだ?

冒頭の「崩落地図」を見ると、いちばん左の1703年に崩落したピンク色の領域はかなり大きい。資料を読んでいくと、ここはかつて「ポンテ地区」と呼ばれるひとつの居住区となっていた。

そのポンテ地区への入り口にあたるこの聖母マリア門は十六世紀に建設されたのだが、名前の由来はかつてこの門の上にあった同名の礼拝堂からきていると分かった。
図版に描かれていた教会はこの礼拝堂で、1703年の崩落の後なくなってしまったと理解できる。
チヴィタ地区とバーニョレッジョ地区を結ぶ地域で消滅した場所がもうひとつある。現在のコンクリートの橋がはじまるあたりをメルカテッロ広場と呼ぶがかつてはここも大きな市の立つ広場で、市役所もここにあったのだという。今では数件の家があるだけで、全く想像できない。
現在のコンクリートの橋に至る以前にどんな橋がかけられていたのかを歴史的に追ってみる。
かつてチヴィタが町の中心であった時代、現在の中心であるバーニョレッジョ地区とは広い道でつながっていた。その途中に今は消滅したフランチェスコ修道院もあった。
度重なる崩落の後、チヴィタ地区はだんだんと孤立した場所になっていたが、19世紀の終わりまでは三車線で馬車が行き交うことが出来る道が通じていた。
1901年にその道が崩壊。
1920年に石造りの橋が建造されたが、1944年にドイツ軍により爆破。
戦後、二十年以上も木製の歩道橋が仮設されていただけだった。
1965年から現在のコンクリート製の橋が建設されたが、完成前にメルカッテッロ広場側の土台が崩落。橋をはじめる位置を少しずらして現在のものとなった。下の写真を見ると、真っ直ぐのはずだった橋のスタート地点がずらされているのがはっきりと分かる。

なにせ、崖ぎりぎりに家を建てたのではなく、台地が周囲からどんどん崩落していってこの光景を出現させたのだから。

崩落はきのう今日にはじまった事ではない。古代エトルリア時代に町が出来てから、現代まで絶え間なく続いてきた。町で売られているガイドブックによれば、これまでに三分の一の地面が崩落し消滅したと推察されている。
※以降の記事内容、図版はそのガイドブックから
以下は15世紀以降はっきりしている崩落箇所の図。

地図上、上の斜線は1466-1469に、右は1450-1695年にかけて、下は1661年に崩落したエリア。
ピンク色は1705年、水色は1829年、茶色は1869年に消滅。
実際に町に入ってみると、門を入るとすぐに崩落しているような家も見かける。
この町出身の最も有名な人物、13世紀の聖ボナベントゥラの家と言われるものも下のような状態になっている。

本当の彼の家はこの先にあって16世紀には巡礼地になっていたが、崩落して消滅してしまった。
さらに資料を読んでいくと、現在コンクリートの橋がかかっているあたりには、現在まったく痕跡さえ残さず崩落・消滅してしまった修道院・教会があったと分かった。下は1765年にその修道院が状況を説明する為にローマ法王庁に送った図面。

左側がチヴィタ地区、右側が現在主要な町になっているバーニョレッジョ。その中間にフランチェスコ修道院・教会があり、地面にたくさんの亀裂が走っている様子が危機的に描かれている。
下の写真のどこにもその痕跡はみつからない。聖ボナベントゥラも学んだという修道院は永遠に消滅してしまったのである。なんという激しい崩落だろう。

さらに、ローマへの絵図面と下の写真に写るチヴィタへの入り口の様子がどうも違うのが気になった。チヴィタへの入り口に教会が描かれているが、今はないのはなぜだ?

冒頭の「崩落地図」を見ると、いちばん左の1703年に崩落したピンク色の領域はかなり大きい。資料を読んでいくと、ここはかつて「ポンテ地区」と呼ばれるひとつの居住区となっていた。

そのポンテ地区への入り口にあたるこの聖母マリア門は十六世紀に建設されたのだが、名前の由来はかつてこの門の上にあった同名の礼拝堂からきていると分かった。
図版に描かれていた教会はこの礼拝堂で、1703年の崩落の後なくなってしまったと理解できる。
チヴィタ地区とバーニョレッジョ地区を結ぶ地域で消滅した場所がもうひとつある。現在のコンクリートの橋がはじまるあたりをメルカテッロ広場と呼ぶがかつてはここも大きな市の立つ広場で、市役所もここにあったのだという。今では数件の家があるだけで、全く想像できない。
現在のコンクリートの橋に至る以前にどんな橋がかけられていたのかを歴史的に追ってみる。
かつてチヴィタが町の中心であった時代、現在の中心であるバーニョレッジョ地区とは広い道でつながっていた。その途中に今は消滅したフランチェスコ修道院もあった。
度重なる崩落の後、チヴィタ地区はだんだんと孤立した場所になっていたが、19世紀の終わりまでは三車線で馬車が行き交うことが出来る道が通じていた。
1901年にその道が崩壊。
1920年に石造りの橋が建造されたが、1944年にドイツ軍により爆破。
戦後、二十年以上も木製の歩道橋が仮設されていただけだった。
1965年から現在のコンクリート製の橋が建設されたが、完成前にメルカッテッロ広場側の土台が崩落。橋をはじめる位置を少しずらして現在のものとなった。下の写真を見ると、真っ直ぐのはずだった橋のスタート地点がずらされているのがはっきりと分かる。


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