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サレルノはカンパーニャ州ではナポリに次ぐ大都市。人口は15万人ほど。古くから栄えた港は今も活発に活動しているようだ。

海と山に挟まれた細長い街は古代エトルリア、ローマの時代から町があったが、特筆すべきはローマ崩壊後にロンゴバルド族の一派がサレルノ公国の首都とした時代。旧市街メルカンティ通りの「アレキの門」は、その王の名前に由来する。★アレキArechi (アレーキ)の門は、その館の門であったと伝わる。

ロンゴバルド族グィズルフォGisulfの娘を二度目の妻としたノルマン人ロベルト・グィスカルドが後援した大聖堂が、間違いなく一番の見モノである。
地震で壊れたものを復元してはいるが、中世ノルマン時代の名残が随所に感じられる場所。入り口には中世のカテドラルにもあったのだろうライオンが一対

サレルノ公の名前のあるまぐさ石。フレスコはずっと後からのものだろう。

柱にかこまれた四角いアトリウムはアラブ的とも古代的とも感じられる。ここに見られる多くのものが古代の遺跡から再利用されているのがひと目でわかる。

中央の水盤はパエストゥム遺跡からのものだそうだ。
見下ろす鐘楼は12世紀1137年から45年にかけてつくられた。アマルフィの大聖堂をはじめ19世紀に再建されたこの地方の多くの鐘楼のモデルとなっている。

聖堂内部への青銅扉もアマルフィ大聖堂と同時代に同じようにコンスタンチノープルで製作されたものだった。
再建された内部ではあるが、ノルマン時代からのものを見つけることができる。
隠れたところに、前の大聖堂からのフレスコ画

正面突き当たりに三つの祭壇があり、向かって一番右が金色に輝くモザイクに覆われている。

真ん中に座するのは十二使徒のひとりマタイ。彼の遺体はロンゴバルド王グィズルフォがサレルノへ運びいれた。
この祭壇下に葬られているのは、歴史上「カノッサの屈辱」として知られる事件の法王グレゴリオ七世。カノッサの地で神聖ローマ皇帝ハインリッヒ四世を三日間雪の中で立たせ、謝罪させたというその人。
しかし、その後のハインリッヒの巻き返しによってローマを追われ、ノルマン族のグイスカルドに救われてこのサレルノに逃れたのだった。ローマへ帰還する事は叶わず、1085年にここで没した。この大聖堂を聖別(教会としてつかいはじめる)したのは彼なので、このモザイクでひざまずいている僧服姿の人物がグレゴリオ七世だと思われる。

顔や足や手まで執拗に剥ぎ取られているが、これはいつ、誰の手によるものだろう?
中央のモザイクは明らかに現代の修復である。※ナポリから来たガイドは「中世のもの」と言ったがありえない。デザインも新しくされているので、中世の面影はほぼないと思ったほうがよい。

どこかに時代を特定できる証拠が見つからないかと詳しく見ていったら、なんと、しっかり製作年号が書かれているではないか↓

左にラテン数字で西暦954年、右に同じくラテン数字で1954年と読める。
※ラテン語が書かれた下、三角型になった左右のスペース
つまり、正面のモザイク画は、聖マタイの遺体がサレルノへ運ばれて一千年が経つのを記念して、1954年に製作されたモザイク画だったのだ。
だとすれば、左にひざまずく人物はロンゴバルド族のグィズルフォ?または教会をささげているからノルマン人のロベルト・グイスカルドに違いない。
左側の奥方はロベルトの妃でグィズルフォの妹か。
向かって左側のアプシスのモザイクは半分壊れた下の部分をフレスコ画で修復している。モザイク画というのはとんでもなく高価なのだ。

中央部近くのフランス支配時代アンジュー家のマルゲリータ・ドラッツォの石棺も興味深い。

古代の石棺を再利用しているが、主たる彫刻は15世紀の彫刻家アントニオ・バボッチョの作。ビザンチン的な無表情さとルネサンス的な豊かな表現の両方を併せ持って、ピサーノ親子の作風を思い出させる。
彼自身が誇らしげに名前を残しているのを、石棺の下部に見つけた↓

地下の聖マタイの墓所は地上とは比べ物にならないほど装飾されているが、中世の雰囲気は薄い。↓

海と山に挟まれた細長い街は古代エトルリア、ローマの時代から町があったが、特筆すべきはローマ崩壊後にロンゴバルド族の一派がサレルノ公国の首都とした時代。旧市街メルカンティ通りの「アレキの門」は、その王の名前に由来する。★アレキArechi (アレーキ)の門は、その館の門であったと伝わる。

ロンゴバルド族グィズルフォGisulfの娘を二度目の妻としたノルマン人ロベルト・グィスカルドが後援した大聖堂が、間違いなく一番の見モノである。
地震で壊れたものを復元してはいるが、中世ノルマン時代の名残が随所に感じられる場所。入り口には中世のカテドラルにもあったのだろうライオンが一対

サレルノ公の名前のあるまぐさ石。フレスコはずっと後からのものだろう。

柱にかこまれた四角いアトリウムはアラブ的とも古代的とも感じられる。ここに見られる多くのものが古代の遺跡から再利用されているのがひと目でわかる。

中央の水盤はパエストゥム遺跡からのものだそうだ。
見下ろす鐘楼は12世紀1137年から45年にかけてつくられた。アマルフィの大聖堂をはじめ19世紀に再建されたこの地方の多くの鐘楼のモデルとなっている。

聖堂内部への青銅扉もアマルフィ大聖堂と同時代に同じようにコンスタンチノープルで製作されたものだった。
再建された内部ではあるが、ノルマン時代からのものを見つけることができる。
隠れたところに、前の大聖堂からのフレスコ画

正面突き当たりに三つの祭壇があり、向かって一番右が金色に輝くモザイクに覆われている。

真ん中に座するのは十二使徒のひとりマタイ。彼の遺体はロンゴバルド王グィズルフォがサレルノへ運びいれた。

この祭壇下に葬られているのは、歴史上「カノッサの屈辱」として知られる事件の法王グレゴリオ七世。カノッサの地で神聖ローマ皇帝ハインリッヒ四世を三日間雪の中で立たせ、謝罪させたというその人。
しかし、その後のハインリッヒの巻き返しによってローマを追われ、ノルマン族のグイスカルドに救われてこのサレルノに逃れたのだった。ローマへ帰還する事は叶わず、1085年にここで没した。この大聖堂を聖別(教会としてつかいはじめる)したのは彼なので、このモザイクでひざまずいている僧服姿の人物がグレゴリオ七世だと思われる。

顔や足や手まで執拗に剥ぎ取られているが、これはいつ、誰の手によるものだろう?
中央のモザイクは明らかに現代の修復である。※ナポリから来たガイドは「中世のもの」と言ったがありえない。デザインも新しくされているので、中世の面影はほぼないと思ったほうがよい。

どこかに時代を特定できる証拠が見つからないかと詳しく見ていったら、なんと、しっかり製作年号が書かれているではないか↓

左にラテン数字で西暦954年、右に同じくラテン数字で1954年と読める。
※ラテン語が書かれた下、三角型になった左右のスペース
つまり、正面のモザイク画は、聖マタイの遺体がサレルノへ運ばれて一千年が経つのを記念して、1954年に製作されたモザイク画だったのだ。
だとすれば、左にひざまずく人物はロンゴバルド族のグィズルフォ?または教会をささげているからノルマン人のロベルト・グイスカルドに違いない。
左側の奥方はロベルトの妃でグィズルフォの妹か。
向かって左側のアプシスのモザイクは半分壊れた下の部分をフレスコ画で修復している。モザイク画というのはとんでもなく高価なのだ。

中央部近くのフランス支配時代アンジュー家のマルゲリータ・ドラッツォの石棺も興味深い。

古代の石棺を再利用しているが、主たる彫刻は15世紀の彫刻家アントニオ・バボッチョの作。ビザンチン的な無表情さとルネサンス的な豊かな表現の両方を併せ持って、ピサーノ親子の作風を思い出させる。

彼自身が誇らしげに名前を残しているのを、石棺の下部に見つけた↓

地下の聖マタイの墓所は地上とは比べ物にならないほど装飾されているが、中世の雰囲気は薄い。↓

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