記事一覧
1 - 3件目まで(3件中)
- ジャクソンレイク朝食クルーズ
-
エリア:
- 北米>アメリカ西部
- テーマ:ハイキング・登山 クルーズ 自然・植物
- 投稿日:2014/06/20 13:16
- コメント(1)
グランドティトン国立公園は、イエローストーン国立公園とセットでちょっとだけ訪れる事が多いのだが、実際に行ってみるとゆっくり滞在したくなる場所だ。2014年6月、三度目の企画ではじめてジャクソンレイク・ロッジに二泊。
人気の朝食クルーズに参加することも出来た。
07:15コルターズベイの桟橋集合。この時には雲も多くてずいぶん寒かった。

夜中には風も強くて、雨が降っている音も聞こえていたのである。
やがて集まってきた朝食クルーズの参加者は、三十人乗り二艘の船に分乗。

我々10人の乗ったランデブー号の船長は三十年の経験をもつベテラン。「おらぁ、書類仕事というのは嫌いなんだ」なんて言いながら、いろんな面白い話をきかせてくれる。
このグランドティトンが国立公園に指定されたのは1929年。だが、その時にはすでに入植していた多くの農民が居て、下流のアイダホ州の農民からも大きな反対があったそうだ。
農民にとっては充分な水が供給されることは、自然保護なんぞよりもよほど重要な事。1901年にはじめてのダムが建設され、現在のモノは1916年建造。
●アシスタント・ガイド役のケイティさんは、この時期サンフランシスコから毎年きているとのこと。若いけれど、彼女もとてもおもしろい話をきかせてくれた。

自然に起こった山火事は人間が消さないのが自然公園の流儀なのだが、敷地がイエローストーン国立公園ほど大きくないグランドティトンでは近年そうもいかなくなっているとか。2009年の火事は幸い雪が消してくれたそうな。
●灰色オオカミは一度絶滅してしまったが、1995年に再導入され、増え続けている。かれらはエルクを好物にしている。
モラン山の氷河を滑り降りたスキーヤーがいる

斜度は60度にもなる。十時間かけて登って、三十分で無事降りてきた。
●船長が「この氷河はその形からジミ・ヘンドリックス氷河とも呼ばれている」と笑いをとった。そういえば、そうかな。
↓モラン山の右には氷河の削った丸い谷。ここは「フォールズ・ヴァレー」と呼ばれている。なぜかは、写真をよく見てもらうとわかるだろう。

落差百メートルを超える滝が二本流れ落ちているのがわかる。
エルク島をまわりこんで、三十分ほどの乗船で桟橋へついた。


雲が多くて寒いから、皆自然に焚火のところにあつまる。標高は2400mちかくもあるのだから6月でも朝はこんなかんじ。

西部劇でよくみるようながっしりしたケトルが火にかかっていた。

コーヒー豆を直に煮た「カウボーイ・コーヒー」なるもの。濁って、とても濃い。

●朝食メニューはわりに多彩。フルーツもいっぱい。


「湖の鱒かですか?」と訊ねると、山の向こうのアイダホから、とのこと。

朝食がおわったころ、山の上から陽があたりはじめた

近くの丘にのぼってみよう

山の天気はどんどん変わる。十五分で花の色も見違えるように鮮やかになっていった

9時15分、再乗船。
行きとちがって、うしろの小さなデッキで太陽を楽しめるおだやかさ

午前10時前、コルターズベイに帰着

2時間半のクルーズは、天候によってずいぶん価値も変わると思うが、ジャクソンレイクを存分に楽しむには、有効なショート・トリップである。
※日本人には、二時間半の間トイレにいけないのがツライかもしれない。島のトイレがほとんど使えないのであります。
人気の朝食クルーズに参加することも出来た。
07:15コルターズベイの桟橋集合。この時には雲も多くてずいぶん寒かった。

夜中には風も強くて、雨が降っている音も聞こえていたのである。
やがて集まってきた朝食クルーズの参加者は、三十人乗り二艘の船に分乗。

我々10人の乗ったランデブー号の船長は三十年の経験をもつベテラン。「おらぁ、書類仕事というのは嫌いなんだ」なんて言いながら、いろんな面白い話をきかせてくれる。
このグランドティトンが国立公園に指定されたのは1929年。だが、その時にはすでに入植していた多くの農民が居て、下流のアイダホ州の農民からも大きな反対があったそうだ。
農民にとっては充分な水が供給されることは、自然保護なんぞよりもよほど重要な事。1901年にはじめてのダムが建設され、現在のモノは1916年建造。
●アシスタント・ガイド役のケイティさんは、この時期サンフランシスコから毎年きているとのこと。若いけれど、彼女もとてもおもしろい話をきかせてくれた。

自然に起こった山火事は人間が消さないのが自然公園の流儀なのだが、敷地がイエローストーン国立公園ほど大きくないグランドティトンでは近年そうもいかなくなっているとか。2009年の火事は幸い雪が消してくれたそうな。
●灰色オオカミは一度絶滅してしまったが、1995年に再導入され、増え続けている。かれらはエルクを好物にしている。
モラン山の氷河を滑り降りたスキーヤーがいる

斜度は60度にもなる。十時間かけて登って、三十分で無事降りてきた。
●船長が「この氷河はその形からジミ・ヘンドリックス氷河とも呼ばれている」と笑いをとった。そういえば、そうかな。
↓モラン山の右には氷河の削った丸い谷。ここは「フォールズ・ヴァレー」と呼ばれている。なぜかは、写真をよく見てもらうとわかるだろう。

落差百メートルを超える滝が二本流れ落ちているのがわかる。
エルク島をまわりこんで、三十分ほどの乗船で桟橋へついた。


雲が多くて寒いから、皆自然に焚火のところにあつまる。標高は2400mちかくもあるのだから6月でも朝はこんなかんじ。

西部劇でよくみるようながっしりしたケトルが火にかかっていた。

コーヒー豆を直に煮た「カウボーイ・コーヒー」なるもの。濁って、とても濃い。

●朝食メニューはわりに多彩。フルーツもいっぱい。


「湖の鱒かですか?」と訊ねると、山の向こうのアイダホから、とのこと。

朝食がおわったころ、山の上から陽があたりはじめた

近くの丘にのぼってみよう

山の天気はどんどん変わる。十五分で花の色も見違えるように鮮やかになっていった

9時15分、再乗船。
行きとちがって、うしろの小さなデッキで太陽を楽しめるおだやかさ

午前10時前、コルターズベイに帰着

2時間半のクルーズは、天候によってずいぶん価値も変わると思うが、ジャクソンレイクを存分に楽しむには、有効なショート・トリップである。
※日本人には、二時間半の間トイレにいけないのがツライかもしれない。島のトイレがほとんど使えないのであります。
- フィヨルドに住んだ人々
-
エリア:
- ヨーロッパ>ノルウェー
- テーマ:クルーズ 世界遺産 歴史・文化・芸術
- 投稿日:2012/09/10 07:59
- コメント(0)
ノルウェーのフィヨルドについて、2003年頃にまとめたものを少し新しくして載せます。フィヨルドの美しい景観の中に貧しかった頃のノルウェーの人々の暮らしが見えてきます。
**
海から120キロも内陸の入り江。ソグネフィヨルドを行く船上からは、素晴らしい景色を見ることができる。

「わあ、こんなところに家がある!」
船上アナウンスがはいる「左手の崖の上には、スティーゲン農場が見えます。[スティーゲン]とは、[はしご]という意味ですが、実際にこの農場へ上がっていくためには、はしごが必要でした」

何故こんな不便な所にすき好んで住んでいるのだろう?農場?こんな所にそんな土地があるのだろうか?誰もがそう思う。「きっと、あんなところが好きで、ゆっくりくらしてるんだろうねぇ」という感想も聞えてきた。
いや、実はそんなお気楽な家ではない。これはノルウェー国民がたどってきた、苦難の歴史の置き土産なのだ。
この写真で見ていただきたいのは美しい滝ではない。上方右手に小さく見える家である。ここにはかつて果樹園があった。りんごが取れた。山羊がいた。馬がいた。そしてそれを飼う人がすんでいたのだ。

今は廃屋になっているが、かつての姿を再現したのが下図。

昔、人口の増加を支えきれない零細なノルウェーの農業からは、たくさんの流民がうまれた。そういった人々の出て行った先は、多くはアメリカであった。
スエーデンからの独立前、1850年から1910年までの間に、ノルウェーからアメリカに移住した人の数は69万1821人と統計は語る。現在でも500万人しか人口のない国としては、驚異的な数の人々が祖国を離れたわけだ。
いや、アメリカに行ったのは、定期船の船賃を稼ぐ事が出来る比較的余裕がある農家である。そうでない人々は、いやでも国内で新たに生きる場を求めなくてはならない。
村を出て、工業化で都市生活者になれた人もいただろう。ノルウェーらしく船乗りになった者もあっただろう。
一方で、苦しくとも農業を続ける事を選んだ人もいた。山の多い寒冷なノルウェーで、新たに農業ができる場所を見つけるのは簡単な事ではない。
そこがフィヨルドの奥の崖の上でも、その人は生きるために自分自身の土地がを造り出さねばらななかったのだ。傾斜地にわずかな畑を作り、家畜を飼って、「住めば都」と感じただろうか?
下はゲイランゲルフィヨルドの家

このフィヨルドとベルゲンをつなぐポスト・シップは、なんと1790年に就航。はじめは司教や、数少ない文字の書ける農民の為に、手紙を運んでいた。19世紀末には常駐ではないが、郵便局が開設された。陸路は雪で閉ざされてしまうため、凍らないフィヨルドの郵便船というのは唯一の生命線だったのだ。だから、現在でもこの船には「POST SHIP」と書かれた旗がひるがえっている。

「はしご農場」の暮らしはもちろん楽ではない。子供は傾斜地を海まで転がり落ちてしまう危険があるので、いつも紐をつけて木につないでおいたという。

雪の重みで家が潰されてしまっても、すぐに助けに来てくれる人はいない。自分たちでなんとかしなくてはならない。※この写真は埋まってしまった友人を助けるために雪を掘っている、と説明してあった。

行政はこんなフィヨルドの奥には何もしてくれなかった。それなのに税金だけは徴収しようとする。徴税人がやってくると彼らは「はしご」を外して知らん顔をしたそうである。※下はその様子を再現した人形

こんな暮らしの中でも、いや、こんな暮らしだからこそ、教会には行った。こんな土地で住むからこそ、神に祈る気持ちは人一倍強かったのだろう。
せめて日曜日にはきれいな服で教会に行く。それは厳しい暮らしの中のささやかな喜びだっただろう。教会の近くには、Dalabudaと呼ばれる小屋があった。人々が作業着をを着替える為の場所である。 下はそのひとつを移築したもの。

***
1869年(明治2年)フィヨルドに始めての観光客がやってきた。各国の王室が自分の船でやってくるのである。ドイツ王カイザー・ヴィルヘルム2世、エジプトのプリンスやタイの王までがやってきた。1920年には112隻もの船が観光のためにやってくるようになっていた。
2002年「ノルウェー・フィヨルド博物館」がゲイランゲルのホテル・ユニオンすぐ近くにオープンした。写真引用した展示や移築した小屋はここにある。オープニングにはソニア皇后も出席された。

建築自体も一見に値する。建物のかたちはフィヨルドに向かってなげられた、一本の銛をイメージしている。
ゲイランゲルの地名[GEIR]とは槍の先をあらわす言葉だとか。
下の写真はその後ろの部分。

先端がこれ

前出のフィヨルドの歴史と生活を展示するコーナーと、下の写真のようなギャラリーから出来ている。外の美しい景色が見える、落ち着いた空間である。

8分間で美しいフィヨルドの映像を見られるシアターもある。
★★現在、ノルウェーは充分お金持ちになった。1969年に北海油田が発見され、世界第三位の石油輸出国である。中東の諸国と違い、その富をひとつの階級が独占するような事をせずに、国民の為に大事に管理をしている様に見える。高所得・高税率に高福祉。今のノルウェーは、フィヨルドの断崖を耕して生活するというようなスタイルが、根本的に受け入れられない世界になってしまった。高所得なノルウェー社会に生きる生活を、そんな零細農業では支えていけないのだ。 ガイランゲル・フィヨルドの崖の上にあるかつての農家は、1960年代には次々に放棄されて空家になっていった。今そこは、希な山岳観光客の訪れる場所になっている。
**
海から120キロも内陸の入り江。ソグネフィヨルドを行く船上からは、素晴らしい景色を見ることができる。

「わあ、こんなところに家がある!」
船上アナウンスがはいる「左手の崖の上には、スティーゲン農場が見えます。[スティーゲン]とは、[はしご]という意味ですが、実際にこの農場へ上がっていくためには、はしごが必要でした」

何故こんな不便な所にすき好んで住んでいるのだろう?農場?こんな所にそんな土地があるのだろうか?誰もがそう思う。「きっと、あんなところが好きで、ゆっくりくらしてるんだろうねぇ」という感想も聞えてきた。
いや、実はそんなお気楽な家ではない。これはノルウェー国民がたどってきた、苦難の歴史の置き土産なのだ。
この写真で見ていただきたいのは美しい滝ではない。上方右手に小さく見える家である。ここにはかつて果樹園があった。りんごが取れた。山羊がいた。馬がいた。そしてそれを飼う人がすんでいたのだ。

今は廃屋になっているが、かつての姿を再現したのが下図。

昔、人口の増加を支えきれない零細なノルウェーの農業からは、たくさんの流民がうまれた。そういった人々の出て行った先は、多くはアメリカであった。
スエーデンからの独立前、1850年から1910年までの間に、ノルウェーからアメリカに移住した人の数は69万1821人と統計は語る。現在でも500万人しか人口のない国としては、驚異的な数の人々が祖国を離れたわけだ。
いや、アメリカに行ったのは、定期船の船賃を稼ぐ事が出来る比較的余裕がある農家である。そうでない人々は、いやでも国内で新たに生きる場を求めなくてはならない。
村を出て、工業化で都市生活者になれた人もいただろう。ノルウェーらしく船乗りになった者もあっただろう。
一方で、苦しくとも農業を続ける事を選んだ人もいた。山の多い寒冷なノルウェーで、新たに農業ができる場所を見つけるのは簡単な事ではない。
そこがフィヨルドの奥の崖の上でも、その人は生きるために自分自身の土地がを造り出さねばらななかったのだ。傾斜地にわずかな畑を作り、家畜を飼って、「住めば都」と感じただろうか?
下はゲイランゲルフィヨルドの家

このフィヨルドとベルゲンをつなぐポスト・シップは、なんと1790年に就航。はじめは司教や、数少ない文字の書ける農民の為に、手紙を運んでいた。19世紀末には常駐ではないが、郵便局が開設された。陸路は雪で閉ざされてしまうため、凍らないフィヨルドの郵便船というのは唯一の生命線だったのだ。だから、現在でもこの船には「POST SHIP」と書かれた旗がひるがえっている。

「はしご農場」の暮らしはもちろん楽ではない。子供は傾斜地を海まで転がり落ちてしまう危険があるので、いつも紐をつけて木につないでおいたという。

雪の重みで家が潰されてしまっても、すぐに助けに来てくれる人はいない。自分たちでなんとかしなくてはならない。※この写真は埋まってしまった友人を助けるために雪を掘っている、と説明してあった。

行政はこんなフィヨルドの奥には何もしてくれなかった。それなのに税金だけは徴収しようとする。徴税人がやってくると彼らは「はしご」を外して知らん顔をしたそうである。※下はその様子を再現した人形

こんな暮らしの中でも、いや、こんな暮らしだからこそ、教会には行った。こんな土地で住むからこそ、神に祈る気持ちは人一倍強かったのだろう。
せめて日曜日にはきれいな服で教会に行く。それは厳しい暮らしの中のささやかな喜びだっただろう。教会の近くには、Dalabudaと呼ばれる小屋があった。人々が作業着をを着替える為の場所である。 下はそのひとつを移築したもの。

***
1869年(明治2年)フィヨルドに始めての観光客がやってきた。各国の王室が自分の船でやってくるのである。ドイツ王カイザー・ヴィルヘルム2世、エジプトのプリンスやタイの王までがやってきた。1920年には112隻もの船が観光のためにやってくるようになっていた。
2002年「ノルウェー・フィヨルド博物館」がゲイランゲルのホテル・ユニオンすぐ近くにオープンした。写真引用した展示や移築した小屋はここにある。オープニングにはソニア皇后も出席された。

建築自体も一見に値する。建物のかたちはフィヨルドに向かってなげられた、一本の銛をイメージしている。
ゲイランゲルの地名[GEIR]とは槍の先をあらわす言葉だとか。
下の写真はその後ろの部分。

先端がこれ

前出のフィヨルドの歴史と生活を展示するコーナーと、下の写真のようなギャラリーから出来ている。外の美しい景色が見える、落ち着いた空間である。

8分間で美しいフィヨルドの映像を見られるシアターもある。
★★現在、ノルウェーは充分お金持ちになった。1969年に北海油田が発見され、世界第三位の石油輸出国である。中東の諸国と違い、その富をひとつの階級が独占するような事をせずに、国民の為に大事に管理をしている様に見える。高所得・高税率に高福祉。今のノルウェーは、フィヨルドの断崖を耕して生活するというようなスタイルが、根本的に受け入れられない世界になってしまった。高所得なノルウェー社会に生きる生活を、そんな零細農業では支えていけないのだ。 ガイランゲル・フィヨルドの崖の上にあるかつての農家は、1960年代には次々に放棄されて空家になっていった。今そこは、希な山岳観光客の訪れる場所になっている。
- 崖の上のボニファシオ
-
エリア:
- ヨーロッパ>フランス>フランスその他の都市
- テーマ:観光地 クルーズ
- 投稿日:2011/07/18 13:39
- コメント(0)
クルーズ船シルーバ・スピリット号は、コルシカ島の最南端、ボニファシオの沖に停泊。朝、デッキに出てみると、崖の上の旧市街の町が目の前にそびえていた。


テンダーボートで港へ向かうあいだも、この崖がボニファシオを要塞の町にした事を体感する。港に着くと厚い城壁が今も町を取り巻いているのが分かる。

ボニファシオの観光案内の多くが海から町を眺める事を勧めている。なるほどこの雰囲気は町に入ってしまっては分からない。あらためて、小さな船での一時間クルーズに乗ってみることにした。
この旧市街は、一方がこの写真のように港に面し、もう一方が外海の崖の上といういわば半島状の地形になっているのが分かる。

近づいて航行すると、長く切れ込んだ入り江の両側に、かつては大砲や銃が狙っていた堡塁築かれているのが分かる。
ここが入り江の入り口。

崖を右手に航行してゆくと、十分ほどで深く切れ込んだ洞窟が見えてくる。遊覧船はそのまま中へ入っていく。水の色がどんどん蒼くなってゆく。

そして、静かな洞の天井からも光がおちてくる。

さらに進むと、奇妙な岩の頂上に十字架が掲げられているのが見えてくる。船内の英語アナウンスがで道院があると知る。
海岸にはたくさんのプライベートボートが止まり、夏の海を楽しんでいる。このあたりの岸辺に行くには道路よりもボートの方が簡単なのだ。
船は方向を変えて、ボニファシオの旧市街の方向へ。
欧米人はほんとに陽のあたるところが大好き。
対して、日本勢は全員が船内の日陰から撮影。
ナポレオンの帽子

いよいよ旧市街のすぐ下にやってきた。
間際までぎっしり建てられた家々、「落ちないの?」と思う。いや、ほんとに崩落した家もあるのだそうです。
そして、圧巻はこの「アラゴン階段」。80メートルの崖の中を斜め45度にて百八十七段の階段を掘りぬいているのだ。
建造は確かに1420年頃と、どの解説も一致する。しかし、伝説は様々。★アラゴン王がボニファシオを征服しようと包囲した際、突入口として秘かに掘らせたが発覚した?★アラゴンに包囲されたボニファシオ側が、ジェノバからの援軍・物資を市内に運び入れる為に一夜で掘り抜いた?
この階段の下には泉が湧き出しており、それを汲みに行く為の道として建設されたというのがもともとの理由のようだ。戦時にそれが利用されることはもちろんあったに違いないが。
旧市街から入場料を払って降り、登り、することが出来る。


テンダーボートで港へ向かうあいだも、この崖がボニファシオを要塞の町にした事を体感する。港に着くと厚い城壁が今も町を取り巻いているのが分かる。

ボニファシオの観光案内の多くが海から町を眺める事を勧めている。なるほどこの雰囲気は町に入ってしまっては分からない。あらためて、小さな船での一時間クルーズに乗ってみることにした。

この旧市街は、一方がこの写真のように港に面し、もう一方が外海の崖の上といういわば半島状の地形になっているのが分かる。

近づいて航行すると、長く切れ込んだ入り江の両側に、かつては大砲や銃が狙っていた堡塁築かれているのが分かる。

ここが入り江の入り口。

崖を右手に航行してゆくと、十分ほどで深く切れ込んだ洞窟が見えてくる。遊覧船はそのまま中へ入っていく。水の色がどんどん蒼くなってゆく。


そして、静かな洞の天井からも光がおちてくる。

さらに進むと、奇妙な岩の頂上に十字架が掲げられているのが見えてくる。船内の英語アナウンスがで道院があると知る。

海岸にはたくさんのプライベートボートが止まり、夏の海を楽しんでいる。このあたりの岸辺に行くには道路よりもボートの方が簡単なのだ。
船は方向を変えて、ボニファシオの旧市街の方向へ。

欧米人はほんとに陽のあたるところが大好き。
対して、日本勢は全員が船内の日陰から撮影。

ナポレオンの帽子

いよいよ旧市街のすぐ下にやってきた。

間際までぎっしり建てられた家々、「落ちないの?」と思う。いや、ほんとに崩落した家もあるのだそうです。
そして、圧巻はこの「アラゴン階段」。80メートルの崖の中を斜め45度にて百八十七段の階段を掘りぬいているのだ。

この階段の下には泉が湧き出しており、それを汲みに行く為の道として建設されたというのがもともとの理由のようだ。戦時にそれが利用されることはもちろんあったに違いないが。
旧市街から入場料を払って降り、登り、することが出来る。

1 - 3件目まで(3件中)