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エリア:
- 中近東 > トルコ > カッパドキア
- 中近東 > トルコ > アンカラ
- 中近東 > トルコ > コンヤ
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テーマ:
- 観光地
- / 世界遺産
- / 歴史・文化・芸術
カッパドキア地方に人が住み始めたのは、先史時代にさかのぼります。その証拠は数多くありますが、それを示す最もよい例がニーデのキョシュク・ホユックとアクサライのアーシュクル・ホユック、ネヴシェヒルのジヴェレク洞窟から出土しています。カッパドキアは初期青銅器時代の幅広い交易によりアッシリア文明の影響を受け、文字が導入されたのもこの時代でした。研究者らは埋蔵されていた、いわゆる“カッパドキア文書”を掘り起こしています。これは土でできた平板に、税法、利息、婚約、通商紛争などに関する様々な内容を楔形文字で刻んだものです。ハッティに続いてヒッタイト、フリギア、ペルシャ、ローマ、ビザンチン、セルジュク、オスマン、どの時代の人々も例外なくカッパドキアに魅了され、それぞれ独自の足跡をこの地に残しています。
カッパドキアは、その立地条件から確固たる重要な意味を持つ戦略上の拠点とされてきました。かの有名なシルクロードを含む重要な通商ルートが東西南北に走る交通の要衝であったため、歴史的・文化的な影響がクモの巣状に複雑に絡み合い、この地は異なる宗教や思想が出会い、相互に影響しあう場所となったのです。
カッパドキア地方はしばしば、その市場や資源を狙った侵略、侵入、略奪の対象となってきました。こうした略奪者たちから身を守るため、地元の住民たちは厄介なよそ者たちから気づかれないよう入り口を隠すことができる大小の洞窟に住むようになりました。身をひそめる生活が長引くことも予想されたため、この穴居住居は最終的に水源、食物貯蔵庫、ワイナリー、寺院などを含む地下都市へと発展しています。地下都市の中には紀元前にさかのぼるものもあります。
紀元後になると、クリスチャンの集団がローマ帝国による迫害から逃れて人を寄せつけない原野カッパドキアに移住してきます。ある集団は、2世紀にエルサレムからアンティオケ(アンタキヤ)とカエサレア(カイセリ)を経由してこの地にたどり着き、現在デリンクユと呼ばれている地方に定住しました。火山作用でできた柔らかい凝灰岩が削りやすいことに気付き、彼らはまず天然の洞窟を広げていくつかの洞窟をつなぎあわせ、住居だけでなく礼拝堂や教会、完全な修道院も彫り上げ、彼らが必至に探し求めてきた平和と安心を、その手で、心血を注ぎ込んで形にしていったのです。
カッパドキアには、1,000以上もの教会や礼拝堂があると言われています。それらの建築様式、設計、装飾の多様性と芸術性は魅惑的で実に見事です。これらの教会の中には宗教建築一式、つまり、一列、二列あるいは三列になった身廊、十字型の設計、前面のホール、側廊、後陣、ドーム、円柱、支柱などたくさんの要素から構成されるバシリカ教会があり、それらはすべて、岩をくりぬいて作ったものです。また、教会の多くは丹念に描かれたフレスコ画で飾られています。こうした教会や地下都市を修復、修繕、維持するという歴史的価値のある作業が、毎年何千人もの観光客を受け入れながら、脈々と続いてきたのです。
当然ながら、カッパドキア地方には異教徒やキリスト教の世界よりも豊かな歴史があります。アナトリアにイスラム教が入ってくると、有名なイスラム教徒の研究者や哲学者を数多く世に送り出すようになりました。14世紀にトルコ人でイスラム教徒の神秘主義者、ハジュ・ベクタシュ・ヴェリが現在ハジュベクタシュと呼ばれているネヴシェヒル郡に居を構えました。この賢人が説いた哲学の中心的な教義はアナトリアの様々なトルコ人集団に団結をもたらす決定的な役割を果たし、1948年の世界人権宣言の精神と内容を体現しているものです。