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旅倶楽部「こま通信」

~旅するように生きていこう~

旅倶楽部「こま通信」
旅するように生きていこう!
プロフィール

ニックネーム:
こまつうしん
居住地:
埼玉県
性別:
男性
年代:
60代
会社名:
旅倶楽部 こま通信
会社英字名:
会社所在地:
埼玉県
業種:
旅行業
自己紹介:
旅倶楽部「こま通信」代表

これまで三千日以上を旅してきて、より良い旅の為に《手造の旅》をはじめました。メンバーからの要望によって、一生モノの旅をつくっていきます。

《手造の旅》のご希望がありましたらご連絡ください。
komatsusin2@gmail.com

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記事一覧

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ゲディミナス城を下から見あげる
ゲディミナス城へ登ろう
エリア:
  • ヨーロッパ>リトアニア>ビリニュス
テーマ:観光地 世界遺産 歴史・文化・芸術 
投稿日:2013/10/11 11:21
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リトアニアの現首都ヴィリニュスの街は、この城からはじまった。小さなケーブルカーでちょっと上がるだけで視覚的にもそれがよく理解できる。
ゲディミナス城へ登ったところから
十月に入り、観光客はぐっと少なくなっているが、ちょうど紅葉真っ盛り。
塔自体はそれほど高くない
この丘は14世紀はじめに人工的に建設されたものだ。下から見上げた時よりもさほど大きく感じられない。かつてはもっとたくさん建物があったのだろうが、再建されているのは一部である。
十字架の丘方向
となりにもう一つ、三つの十字架のある丘が見える。※フランチェスコ派修道士殉教の地
こちらは自然の丘で、城の展示によれば、この城塞以前に木造の塀にかこまれた古い街があった。発掘もされている。

丘へ登るのとは別に入場料がかかるが、塔内部へ登っていくと
上へ登る階段
かつてのこの場所のモデルがある。
より古い時代のものを見ると、現在のカテドラルと同じ場所にはもっと小さな教会がある。今は独立している鐘楼は古い城壁の一部であったことが分かる。

古い時代の教会と塔
現在の教会に建て替えられた後
現在の教会と塔

この丘をふくめてぐるりと水路で囲まれたヴィリニュスのより古い時代・14世紀の旧市街がここまでであった事がわかる。
川をひきこんで周りを囲った街だった

当時の最大の敵はエルサレムを追われてこちらへ転進した「ドイツ騎士団」であった。まだキリスト教化していなかったリトアニアを標的に攻めていた。この丘を建設したゲディミナス大公自身もはじめは自然崇拝宗教者であった。下の写真から、この時代の自然崇拝神殿の跡を白く区別できるようにしてある場所が判別できるだろうか。
元神殿のあった場所を示す
ゲディミナスは「ドイツ騎士団」と和睦するために洗礼を受けキリスト教者になったが、騎士団は攻めるのを止めはしなかった。騎士が身に着けていた鎧は当時のリトアニア人を驚かせたらしく、彼らを「ヴォーケートス」と呼んだ。「ヴォー」は「とても」、「ケートス」は「キェトゥス」=「固い」、の意味である。
「固い人」

**
城塞の最上階に「人間の鎖」の展示があった。「人間の鎖」の展示当時のビデオも見せてくれる。

1989年にバルト三国の独立を求めてリトアニアの首都ヴィリニュスからエストニアの首都タリンまで人々が手をつないで平和的な示威行動をした事件である。
1989「人間の鎖」の写真
8月23日は、五十年前に独ソ不可侵条約が結ばれ、その秘密条項によってバルト三国がソ連のものとされた日である。

五百キロにもおよぶ距離を百万とも二百万ともいわれる人々が繋いだ。これは確かにユネスコの「世界記憶遺産」に登録される価値がある出来事である。

起点となったヴィリニュスの大聖堂前には、「STEBUKLAS」=リトアニア語で「奇跡」と記されたプレートがはめ込まれている。
「人間の鎖」起点

このアイデアのもとになったと思われるのが、前年1988年にバルト海の環境を守ろうとアピールするために、バルト海を囲む「人間の鎖」企画だったと思われる。下記のHPの項目3にそのことが少し言及されている。
http://jp.mfa.lt/index.php?1431368471

***
この城塞訪問、眺めだけでない価値があった。下りは紅葉真っ盛りの中旧市街へ向かって歩いていこう。

紅葉真っ盛りの山を見ながら丘を降りる

唯一サン・マリノに残るのはこれ
サンマリノ〜ドマニャーノの宝
エリア:
  • ヨーロッパ>サンマリノ共和国
テーマ:観光地 歴史・文化・芸術 
投稿日:2013/09/26 08:13
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サンマリノのど真ん中にある市立博物館をガイド説明付きで訪問。いつも前を通るだけだったけれど、けっこうおもしろいモノがある。いくつかご紹介いたします。
★ドマニャーノの宝
サンマリノ内の城塞地区・ドマニャーノから発見された五世紀末から六世紀はじめの装飾品。
復元図〜サン・マリノ博物館埋葬地から発見され、同じデザインの一揃いが美しい。

西ローマ帝国滅亡直後、当時ラヴェンナを首都としたゴート族の王テオドリクスの時代のもので、その配下の高位の女性のものと推察されている。

金、ガーネット、緑色のガラス、真珠貝を使い、「クロワゾンネ」と呼ばれる七宝焼きの一方法で制作されている。
唯一サン・マリノに残るのはこれとても美しいが、上の写真のひとかけら以外はレプリカだった。

説明によると他の品々は、ロンドンの大英博物館、NYCのメトロポリタンに所蔵されているとのこと。よし、今回は最後にロンドンを訪れるから、そこで是非見つけよう!

大英博物館は所蔵していても常時公開していないモノも多いので心配したが、以前もすぐ前を通っていた場所にしっかり展示されていた。
これらが、それ。
大英博物館所蔵4
大英博物館所蔵3
大英博物館所蔵2
1892年に発見され、1933年「購入」したと表示。

ロンドンでも全体の復元図があったが
復元図〜大英博物館当然ながらサンマリノでの展示の方が、愛情が感じられた。

サンマリノに本物を展示し、ロンドンにレプリカを贈るという方法はいかがでありましょう?(笑)遺跡からの発掘物は、基本的にはその場所に置かれる方がはるかに価値を理解させてくれるものだから。

★神域への奉納像
女神の小像
崖が集まってできたようなサンマリノの山腹に泉の湧き出す場所があり、そこが女神の神域になっていた。そこを発掘調査した時に出土した女神の小像である。
参拝者が奉納した小像は、岩の上に鉛で固定されていたそうだ。もしかしたら、これと似た本物の像が神殿内にあったのかもしれない。

★紋章石版
サンマリノの正門にあたるフランチェスコ門
フランチェスコ門この裏側にはめこまれた二つの紋章門の裏側にある二つの紋章
だが、本物はここにあった
門のレリーフ、こちらが本物

左右は現在同じように設置されているが、実は全く違う時期に制作されていた。

左の鷲は16世紀頃のもの。モンテフェルトロ家のシンボルで、サンマリノがウルビーノ公を支持する事をあらわす。近くのリミニを支配したマラテスタ家へ対抗していたのである。

右の三つの山の上の羽はサンマリノの国章。意外に新しく19世紀になってから出来たものだという。その証拠にリベルタ=「自由」と書かれた文字はラテン語ではなくイタリア語。字体もゴシック調の新しいデザイン。イタリアが統一した19世紀になってはじめてサンマリノは自国が共和国として独立することを自覚し、その自由を体現する紋章を決めたようである。

サッフォー(ナポリ考古学博物館)
古代、あこがれの女性像
エリア:
  • ヨーロッパ>イタリア>ナポリ
  • 中近東>トルコ>イスタンブール
テーマ:観光地 歴史・文化・芸術 
投稿日:2013/05/23 09:53
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イスタンブルの考古学博物館にある巨大な女性の頭部。顔だけだが一メートル近くある。
イスタンブル考古学博物館より
以前読んでいた博物館図録説明では「女神像頭部」となっていたが、2013年4月に訪れてみると、「サッフォー」と、断定的に書かれていた。
確かにナポリ考古学博物館で見たフレスコ画と似ている。

●サッフォー(サッポーとも)は紀元前七世紀にレスボス島に生きた一般人。神様ではない。詩人で生きている時から名声を得ていたとされる女性。確認される記録では、政治的な発言から一時シチリアのシラクサへ亡命していた事がわかるそうだ。

紀元前七世紀の古代において、女神でもない女性が有名になり、像までつくられたとしたら、異例な事だ。

五百年以上後の古代ローマ時代になっても、サッフォーの名前は記憶され続け、紀元後一世紀の遺跡から、有名なこのフレスコ画が発見された。
サッフォー(ナポリ考古学博物館)
ペンを片手に美しくこちらを見ている姿は、当時の女性のあこがれだったようで、同じようなスタイルで自分自身を描かせたフレスコ画がいくつも見つかる。これらはナポリ考古学博物館所蔵
有名なポンペイの商家の夫妻図
ポンペイ出土の夫婦像
忘れてならないのは、この時代、「文字が書ける」ということは、それだけで誇れたという事。ましてや女性で読み書きが出来、詩まで創作するというのは、あこがれの的だったに違いない。
この絵を描かせた彼女は、意識してこのポーズを描かせたのである。

他にも、同様のポーズをとった女性像がある。
ポンペイ出土の婦人像

現代においても、才色兼備でありたいと、女性達は思うのありましょう。
サッフォーが女性同士の愛=レズビアン(レスボス島出身)の語源となった人物であったとしても。

バスを降りて展望台から見る修道院
スメラ修道院縁起とその歴史
エリア:
  • 中近東>トルコ>トラブゾン
テーマ:観光地 その他 歴史・文化・芸術 
投稿日:2013/05/12 13:24
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グルジア国境に近い黒海に面したトラブゾンの街から一時間ほど山の中へ入ると、岸壁にはりついたようなスメラ修道院がある。
見上げる修道院
伝説によると、アテネで元異教の神殿にあった「聖ルカが画いた聖母マリアの肖像画(イコン)」が、AD385年にアテネから飛んできた。

聖ソフロニオスと聖バルナバは、ぞれぞれ別の場所で大天使ガブリエルが夢枕に現れ、導かれて旅をし、この岸壁にの洞窟にそのイコンがあるのを発見した。
二人がそこに住んだのが、この修道院の縁起である。

かつては七十室以上あったという修道院の中心が、この場所。
外壁もフレスコで埋められている
ここは自然の洞窟をふさいだ構造。
聖堂の中
天井に巨大なマリアとキリストが画かれている
天井のマリア
このマリアの顔が黒い事がスメラ修道院の語源と言われることもある。ギリシャ語で黒は「メラス」だから。
天井にえがかれた大きなキリスト
●別の語源説
この修道院のフルネームは「Panaghia tou melas、パナギア・トゥ・メラス」=黒い岩の聖母という。「t」を発音しにくかった住民が「s」の音になり、スメラとなった。

修道院の入り口から見たところ。20世紀までは屋根があった。写真も残されている。
入口からの眺め


●東ローマ帝国時代(後世ビザンチン帝国と呼ばれるようになる)。
皇帝はもちろんこの修道院を尊ぶ。イスタンブルの現アヤソフィアを建設したユスティニアヌス大帝の時代、配下の司令官だったベリサリウス(イタリアはラヴェンナに彼の肖像画モザイクが残る)が改築、鹿皮の写本多数が寄贈された。
1204年の第四十字軍によるラテン帝国成立により、亡命した東ローマ帝国コムネノス朝が、グルジアの後押しによりトレビゾンド王国を建設。アレクシウス三世などはこのスメラ修道院で戴冠式を挙行した。

●オスマントルコ時代
1453年にコンスタンチノープルが陥落した後、1461年にトレビゾンド王国も滅亡。イスラム教のオスマン・トルコが支配者となったが、修道院は変わらず信仰を集めていた。
トラブゾンにはたくさんのギリシャ正教を信仰する住民が暮らしており、オスマントルコはそれを迫害はしなかった。

皇太子時代にトラブゾンの知事で後にヤウズ・スルタンと呼ばれることになるセリムは、狩の時(?)具合が悪くなり修道院で手当てを受けた。「私がスルタンになったら、ここの聖母マリアに贈り物をしよう」と言った。

1512年にスルタンとなったセリムは、彼と同じ背丈の黄金の燭台五本を奉納した。イランを征服した時にはシャーの宝物からやはり燭台二本を贈っている。

1710年、1732年、1740年、修道院拡張。1860年には当時のスルタン・アブドゥルメジットの命により最大の大きさになり三十人の修道士が住んでいた。同じ清教徒であるロシアのツァーも訪れた事がある。


何度も装飾しなおされているため、フレスコ画も上塗りされた。この部分をみると、それがよくわかるだろう。
何層にもなったフレスコ画古いフレスコ画の表面がでこぼこになるように傷を付け、そのうえに漆喰を塗ったのだ。

なので、場所によりさまざまな時代のフレスコ画が入り混じっている。この旧約聖書の「鯨に飲み込まれたヨナ」はわりに新しい時代に見える。
旧約聖書のヨナ

ライオンに食べられて殉教したとされる紀元後一世紀の聖イグナチウス
聖イグナチウス
なんとも表現がおもしろい。15世紀頃か?

落書きもたくさんある。ギリシャ語のもので1803と書かれているものがあったが、本当にその時代のものなのだろうか?
ギリシャ語の落書きもたくさん
大天使ガブリエル
大天使ガブリエル

19世紀に暖炉がたくさんつくられたそうだが、これもその跡
暖炉の跡

★このように、オスマン・トルコの時代に入っても、修道院は庇護され無事に活動していた。破壊された教会を見て、すぐに「イスラム教徒が破壊した」と思い込むのは早計だ。

第一大戦でトルコが敗れると数年の間ロシアがこの地域を占領していた。彼らもまた正教徒であり、この修道院を破壊はしなかった。

1919年から後のアタチュルクが新制トルコへの革命をスタート。地中海に面したイズミール周辺から、イギリスに後押しされたギリシャが侵攻。1922年までトルコ国内で激しい戦争が続く。

イギリスは、ギリシャ系住民の多かったこのトラブゾン周辺を「ギリシャ・ポントス共和国」としてトルコから切り離そうとしたが失敗。ギリシャ⇔トルコ間の住民交換の時代、三万人以上のギリシャ系住民が街を離れていった。

スメラ修道院が本当の危機に陥ったのはこの時である。何百年ものあいだイスラムの支配者の元であっても、ギリシャ系住民が住み続けている間は問題なかった。一般住民がいなくなった時、本当の危機が訪れた。

1923年8月末、修道士たちはもっとも大事な「聖ルカが画いた聖母マリアのイコン」を、一キロほど離れたバルバラ教会の地下に隠し、「トルコ人の手に落ちるよりは」と、あろうことか修道院を爆破したのだそうだ※この事は英語の解説書では、いくら調べても書かれていなかった。今回同行してくれたトルコ人ガイドさんがトルコ語で読んだ解説にだけあったそうだ。そう言われてあらためて見直すと、屋根が吹き飛んだと思われる場所もあり、「三か所で爆弾を爆発させた」というのも事実に思える。

●共和国トルコが成立した後も、ギリシャの逃れた人々はこのイコンの事を忘れなかった。ギリシャ北部に「パナギア・スメラ」という同じ名前の村をつくって住んでいた。

1931年、この小村を訪れた当時のギリシャ首相エレフシウス・ベニゼロスは、その事実を知り、後にトルコの第二代大統領となるイスメット・イノニュにイコンをギリシャに持ってくる交渉する。

同年10月25日、正装に身を包んだギリシャ正教司教アンブロジウスはトラブゾンに降り立つ。トルコ兵に守られ、スメラ修道院跡とバルバラ教会へ向かう。埋められていたイコンは無事そのまま発見され、その他の聖遺物と共にギリシャへ移送された。トルコ政府は司教に一か月の滞在許可を与えていたが、一行はたった四日、最短の滞在でトルコを後にした。

現在このイコンはギリシャ北部、マケドニア国境に近い山の中に1951年に建設された同名の教会に安置されている。そこはもともとのスメラと似た場所だという事で選ばれたそうである。
パナギア・スメラ

フェアハットとシリンの巨像拡大図
悲恋伝説の水路〜フェルハットとシリン
エリア:
  • 中近東>トルコ>トルコその他の都市
テーマ:観光地 その他 歴史・文化・芸術 
投稿日:2013/05/07 08:16
コメント(0)
トルコ北東部、黒海から一時間半ほど内陸に入った美しいアマスィア(アマシア)の街。郊外には、悲恋伝説と共に古い水路が残されている。

街から五キロほどのところで二人の像が岩山にあるのが見えた。
フェアハットとシリンの像かなり巨大だ。

巨像の立つ岩山のふもとへ歩いていくと、岩山をくりぬいた古代の水路が延々と続いている。
古代の水路1
ところどころ水がたまっているが、大きさは人がちょうど中を歩ける程度である。
古代の水路の大きさは

この水路にまつわる悲恋伝説
★フェルハットとシリン★***
この話はいくつかヴァージョンがあるようだが、トルコ版のひとつを要約して紹介いたします。

アゼルバイジャン女王の妹シリンは、トルコから水道を掘りに来た職人フェルハットと恋に落ちる。
身分のちがいに加えて遠距離恋愛などできない時代、別れは必然だったが、アゼルバイジャンの王国が崩壊してシリンがトルコの古都アマスィアへ身を寄せることになり、二人は再会。※アマスィアはオスマントルコ時代に歴代の王子が教育のために送り込まれる街だった。

フェルハットはシリンとの間を認めてもらうよう、スルタンに願い出るが、スルタンの息子がシリンに横恋慕していたので、難題を出される。

井戸掘り職人のフェルハットが、岩山を穿つ水路をつくりアマスィアへ水をひくことが出来たら認めてやろう、というのである。

フェルハットは山に穴をあけるというこの難事業を推進。※今でもトルコでは「フェルハットの様に愛している」というと、出来ない事をも可能にするという決意表明になるそうな。

不可能と思われた水路がほぼ完成に近づいた時、スルタンは「シリンが死んだ」とウソを伝える。フェルハットは絶望のあまりつるはしで自分を打って自殺。それを知ったシリンもあとを追う。

***
この水路は確かに山を穿ち20キロの長さがある。しかし、これは古代ローマの建設によるものとされ、伝説の悲恋物語は史実ではない。

それでも、この話はトルコだけでなくペルシャ系のイランなどでも、悲恋物語として人気があるそうな。国も時代も設定も様々ないろいろなヴァージョンが見つかります。

2013年4月のトルコ航空機内誌では数ページのアマスィアの特集が載せられていた。近年だんだんと観光客も増えているそうで、それに合わせて見学できる場所も整備されていっている。

この場所も今年6月(あと二か月)に、展示館を開設して世界中から恋人たちを集めたいと考えているとの事。なるほどこのスペースにその建物が出現するのでしょう。
展示館準備中
遺跡だらけのトルコにおいては、ローマ時代の水路というだけではなかなか人を集められないかと考えた一策かしらん。繁盛すると良いのですが。

***
こちらはアマスィアを流れるイシェルマック川のほとりに以前からあるフェルハットとシリンの像
アマスィア市内にある二人の像

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