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- メルク修道院のバロック
-
エリア:
- ヨーロッパ>オーストリア>メルク
- テーマ:街中・建物・景色 世界遺産 歴史・文化・芸術
- 投稿日:2010/10/18 22:53
- コメント(0)
ドナウ川ヴァッハウ渓谷クルーズの乗り場としても知られる、オーストリア屈指の大修道院がこのシュティフト・メルク。シュティフトとは大きな捧げ物を意味する。

ドナウ川を見下ろす崖の上に18世紀から建つ教会。
多くのツアーは外からの写真で過ぎてゆくけれど、内部見学ツアーはなかなか見ごたえがある。女帝マリア・テレジアも何度も訪れた場所で、入り口の豪華な階段を登るとハプスブルグ家、その前の支配者バーベンベルグ家の肖像画が掲げてあるが、主としてはベネディクト派の僧院としての歴史展示である。
まずは聖ベネディクトがお出迎え。

HOREとはベネディクト派教本のはじめの言葉。「聞け」という意味になる。
彼らのモットーは「学ぶ事」「祈る事」「耕す事」であった。
これは13世紀イタリアで制作された羊皮紙の会則本。

修道院いちばんのお宝は1040年に奉納された「聖十字架」の断片。
これにまつわる伝説についての祭壇画が残されている。

盗難にあってしまった「聖十字架」がヴィーンで発見され、その帰属をめぐりメルクと争いになる。
ドナウ川に浮かべて流れていった方の所有にしようというヴィーン側の陰謀テイアン。しかし、十字架は流れに逆らってメルクに到着したという話。

1780年代に私用された「棺桶再利用」システムのつけられたお棺。埋葬されると遺体だけそこから土の中に置いて棺桶は再利用のさめに引き上げられたのである。
モーツァルトが亡くなったのもまさにこの「節約志向」の時代。それによって、彼の遺体もまた共同墓地へはいることになってしまった。
節約志向を命令した皇帝曰く「人間が死んだからといって木が死ぬ事はない」。

途中、ドナウ川を見下ろすテラスに出られる。
このテラスを挟んでシンメトリーにつくられた長方形の大広間がひとつのみどころ。

こちらはそのひとつで、修道院の心臓部とも言える図書室である。
8万冊の蔵書があるそうな。こられの書物の背表紙が同じデザインになっている事に常々不思議を感じていたが、これは所有者がそろえるのだそうだ。
現代の図書感覚とは全く違う。
そして、ユニークな螺旋階段を下りて本堂へ。


教会の天上には聖ベネディクトの生涯が美しく描かれている。

ドナウ川を見下ろす崖の上に18世紀から建つ教会。
多くのツアーは外からの写真で過ぎてゆくけれど、内部見学ツアーはなかなか見ごたえがある。女帝マリア・テレジアも何度も訪れた場所で、入り口の豪華な階段を登るとハプスブルグ家、その前の支配者バーベンベルグ家の肖像画が掲げてあるが、主としてはベネディクト派の僧院としての歴史展示である。
まずは聖ベネディクトがお出迎え。

HOREとはベネディクト派教本のはじめの言葉。「聞け」という意味になる。
彼らのモットーは「学ぶ事」「祈る事」「耕す事」であった。
これは13世紀イタリアで制作された羊皮紙の会則本。

修道院いちばんのお宝は1040年に奉納された「聖十字架」の断片。
これにまつわる伝説についての祭壇画が残されている。

盗難にあってしまった「聖十字架」がヴィーンで発見され、その帰属をめぐりメルクと争いになる。
ドナウ川に浮かべて流れていった方の所有にしようというヴィーン側の陰謀テイアン。しかし、十字架は流れに逆らってメルクに到着したという話。

1780年代に私用された「棺桶再利用」システムのつけられたお棺。埋葬されると遺体だけそこから土の中に置いて棺桶は再利用のさめに引き上げられたのである。
モーツァルトが亡くなったのもまさにこの「節約志向」の時代。それによって、彼の遺体もまた共同墓地へはいることになってしまった。
節約志向を命令した皇帝曰く「人間が死んだからといって木が死ぬ事はない」。

途中、ドナウ川を見下ろすテラスに出られる。
このテラスを挟んでシンメトリーにつくられた長方形の大広間がひとつのみどころ。

こちらはそのひとつで、修道院の心臓部とも言える図書室である。
8万冊の蔵書があるそうな。こられの書物の背表紙が同じデザインになっている事に常々不思議を感じていたが、これは所有者がそろえるのだそうだ。
現代の図書感覚とは全く違う。
そして、ユニークな螺旋階段を下りて本堂へ。


教会の天上には聖ベネディクトの生涯が美しく描かれている。

オーストリア第二の都市グラーツには旧市街を見下ろす城山がそびえている。
かつては山上を埋め尽くす下の絵のような要塞があった。

この山上の要塞は1809年ナポレオンとオーストリアが手を結んだ際、後々フランスの脅威にならないように取り壊されてしまった。
現在は時計塔と鐘楼が残されているだけだ。
上記の絵にも小さく描かれている。
この時計塔は市民が懇願し買い取る事で残された。

町の人々に少しでも時間が見えやすいように、文字盤が中心よりも旧市街にむかってずらして取り付けられているのが分かるだろうか。
もともと1265年には城壁で一番高い塔があった記録がある。
1560年に木製の小塔が付け加えられ、時計は1712年設置。
設置当初は時間を示す長針しかなかったのだそうだ。それで充分というライフスタイルの時代だったのだろう。
もうひとつ残されている塔は鐘楼。

34メートル高の八角形。内部には1587年にグラーツで鋳造されたLIESLと呼ばれる巨大な鐘がとりつけられている。直径二メートル近く、重さは4632キロにもなるそうな。

近くにはもともと城の地下室だった場所が、現代では劇場になっている。
近代まで監獄に使われており、かつての独房がBOX席であります。
高さ20メートルの壁を擁する要塞。厚さ6メートルの壁を持つ。

この地下は牢として長く使われていて、入ったらまず出られない場所だった。
十六世紀、プロテスタント思想を問題視されて投獄された司祭が、奇跡的に解放されて出てきた後に座った石の椅子がこれ。

長い間「出られるように」とだけ思い続けていた彼は、次の瞬間、この椅子のうしろの崖から身を投げたのだそうだ。それ以来「願いの叶う椅子」とされている。究極の願いが叶った後、人はもう死ぬしかないのでしょうか。
**
シュロスベルグ=城山には、19世紀から簡単に登れるケーブルカーが設置されている。鐘楼のところへ到着する。

近年は時計塔の近くにも80セントで利用できるエレベーターが登場した。これ、とてもベンリです。岩の中を透明なエレベーターで下降中。

エレベーターで旧市街へ降りて、城山を見上げたところ。

***
城山から旧市街を見渡すと、ムーア川の岸辺に実におもしろい建物があるのがわかる。あの「なまこ」の化け物は何?

拡大

これは、現代美術館。
あえて旧市街の建物と違えたデザインになっているが、これはこれでなかなか面白い。また、訪問できる機会をつくろうと思います。
かつては山上を埋め尽くす下の絵のような要塞があった。

この山上の要塞は1809年ナポレオンとオーストリアが手を結んだ際、後々フランスの脅威にならないように取り壊されてしまった。
現在は時計塔と鐘楼が残されているだけだ。
上記の絵にも小さく描かれている。
この時計塔は市民が懇願し買い取る事で残された。

町の人々に少しでも時間が見えやすいように、文字盤が中心よりも旧市街にむかってずらして取り付けられているのが分かるだろうか。
もともと1265年には城壁で一番高い塔があった記録がある。
1560年に木製の小塔が付け加えられ、時計は1712年設置。
設置当初は時間を示す長針しかなかったのだそうだ。それで充分というライフスタイルの時代だったのだろう。
もうひとつ残されている塔は鐘楼。

34メートル高の八角形。内部には1587年にグラーツで鋳造されたLIESLと呼ばれる巨大な鐘がとりつけられている。直径二メートル近く、重さは4632キロにもなるそうな。

近くにはもともと城の地下室だった場所が、現代では劇場になっている。
近代まで監獄に使われており、かつての独房がBOX席であります。
高さ20メートルの壁を擁する要塞。厚さ6メートルの壁を持つ。

この地下は牢として長く使われていて、入ったらまず出られない場所だった。
十六世紀、プロテスタント思想を問題視されて投獄された司祭が、奇跡的に解放されて出てきた後に座った石の椅子がこれ。

長い間「出られるように」とだけ思い続けていた彼は、次の瞬間、この椅子のうしろの崖から身を投げたのだそうだ。それ以来「願いの叶う椅子」とされている。究極の願いが叶った後、人はもう死ぬしかないのでしょうか。
**
シュロスベルグ=城山には、19世紀から簡単に登れるケーブルカーが設置されている。鐘楼のところへ到着する。

近年は時計塔の近くにも80セントで利用できるエレベーターが登場した。これ、とてもベンリです。岩の中を透明なエレベーターで下降中。

エレベーターで旧市街へ降りて、城山を見上げたところ。

***
城山から旧市街を見渡すと、ムーア川の岸辺に実におもしろい建物があるのがわかる。あの「なまこ」の化け物は何?

拡大

これは、現代美術館。
あえて旧市街の建物と違えたデザインになっているが、これはこれでなかなか面白い。また、訪問できる機会をつくろうと思います。
- オルビエート地下ツアー
-
エリア:
- ヨーロッパ>イタリア
- テーマ:世界遺産 歴史・文化・芸術
- 投稿日:2010/09/22 18:10
- コメント(0)
オルビエートに巨大な地下通路があるという話はきいていた。
しかし、それが実際どんな穴なのか?納得のいく解説を聞いたり読んだりした事がなかった。やっぱり自分で行ってみるしかない。
オルビエートに宿泊するツアーをつくり、一日に何度か行われるガイドツアーに参加した。集合場所はこの美しい大聖堂前のツーリスト・インフォメーション。

ここから二百メートルほど歩いて、崖に面した公園の一角にある入り口から地下に入る。 まず、説明版にて、オルビエート全体で一千以上の数の地下道が確認されているという事実に驚いた。下の写真は大聖堂付近で確認されている洞窟を赤い線で示した地図。

そこらじゅう穴だらけだというのがよく分かる。

上は入ってすぐの広くなった場所。入り口から一階分降りた程度の場所。
実際穴はそれほど深くはない。オリーブを絞る古い装置もある。
これらの穴がいったい何の為に掘られたのか?いちばんの理由は水を得る為である。オルビエートは丘の上の街で、古代から水の供給に苦労してきた。
十六世紀には法王クレメンス七世が深さ62メートルにもなる「サン・パトリツィオの井戸」を掘らせている。
もちろん古代ローマ人も、それ以前のエトルリア人達も苦労し、考えた。
誰でも考えつくのは雨水をためる事。この地下には貯水槽がたくさんある。
下の写真はそのひとつ。

テラコッタの導管がここへ雨水を誘導していた跡がたくさんあった。
家から貯水槽へ降りてくる階段もあちこちにあった。

この貯水槽の上に彫られたたくさんの穴が何か?分かるだろうか。
なんと、ここで鳩を飼って食料にしていたのだそうだ。
崖際の家だから出来た工夫である。
さらに、これらの水がより地下深くまで染み通って濾過されたところへ井戸が掘られている。

井戸深さは25メートルほど。下にはまだ水がある。
写真で井戸の真上に開けられた穴が何か分かるだろうか?下が拡大写真。

これは、なんと、それぞれの家から直接井戸辺へ降りてくる岩に削られたはしごである。
家から直接長い長い紐にバケツをくっつけて水を汲むことも出来る。
※これってナポリの地下「ソッタネラータ・ナポリ」見学ツアーで見た光景と同じ。
さて、こんなに掘ったら上の建物が危なくないのか?と誰でも思う。
その答えが下の写真。

トゥーフォと呼ばれる凝灰岩の台地は、掘りやすいがゆえに崩落の危険も大きいのでこうやって巨大な柱で支えているのである。
実際、市内の多くの穴は現在埋め戻されている。
また、この洞窟は現代に発見されたときにはゴミや瓦礫でいっぱいになっていて、すぐとなりに上部までいっぱいになった穴が見えていた。これなら「埋め戻す」よりも、掘らなければ大丈夫?
*
今回もぐったオルビエートの地下通路は、我々が巡った場所で最大地下四階程度。トルコ中部にあるカッパドキアの地下都市のような深さはない。
そして、それぞれが連結した「都市」としての役割を持っているわけではないようである。ゆえに「地下都市」と表現している本もあるが、表現として妥当ではないように思う。
冒頭の地下道地図を見ても、赤い地下道はそれぞれ独立して存在いるのが分かる。
オルビエートの地下通路は、カッパドキアのような地下都市ではなく、フランスのシャンパーニュにあるカーヴのような機能を持ったこともなく(第一次大戦時のランス周辺では都市ごと地下のワインカーヴへ避難したことがあった。ここオルビエートの洞窟も第二次大戦時には避難壕としてつかわれた場所はあったが、規模も運用も違いすぎる)、ジブラルラルやルクセンブルグのように大砲をすえつけて軍事的に利用した場所でもなかった。
それは、オルビエートに暮らす人々がエトルリアの昔から現代に至るまで共通した悩み=水の供給に必要な方法として考え出した知恵だったのである。
しかし、それが実際どんな穴なのか?納得のいく解説を聞いたり読んだりした事がなかった。やっぱり自分で行ってみるしかない。
オルビエートに宿泊するツアーをつくり、一日に何度か行われるガイドツアーに参加した。集合場所はこの美しい大聖堂前のツーリスト・インフォメーション。

ここから二百メートルほど歩いて、崖に面した公園の一角にある入り口から地下に入る。 まず、説明版にて、オルビエート全体で一千以上の数の地下道が確認されているという事実に驚いた。下の写真は大聖堂付近で確認されている洞窟を赤い線で示した地図。

そこらじゅう穴だらけだというのがよく分かる。

上は入ってすぐの広くなった場所。入り口から一階分降りた程度の場所。
実際穴はそれほど深くはない。オリーブを絞る古い装置もある。
これらの穴がいったい何の為に掘られたのか?いちばんの理由は水を得る為である。オルビエートは丘の上の街で、古代から水の供給に苦労してきた。
十六世紀には法王クレメンス七世が深さ62メートルにもなる「サン・パトリツィオの井戸」を掘らせている。
もちろん古代ローマ人も、それ以前のエトルリア人達も苦労し、考えた。
誰でも考えつくのは雨水をためる事。この地下には貯水槽がたくさんある。
下の写真はそのひとつ。

テラコッタの導管がここへ雨水を誘導していた跡がたくさんあった。
家から貯水槽へ降りてくる階段もあちこちにあった。

この貯水槽の上に彫られたたくさんの穴が何か?分かるだろうか。
なんと、ここで鳩を飼って食料にしていたのだそうだ。
崖際の家だから出来た工夫である。
さらに、これらの水がより地下深くまで染み通って濾過されたところへ井戸が掘られている。

井戸深さは25メートルほど。下にはまだ水がある。
写真で井戸の真上に開けられた穴が何か分かるだろうか?下が拡大写真。

これは、なんと、それぞれの家から直接井戸辺へ降りてくる岩に削られたはしごである。
家から直接長い長い紐にバケツをくっつけて水を汲むことも出来る。
※これってナポリの地下「ソッタネラータ・ナポリ」見学ツアーで見た光景と同じ。
さて、こんなに掘ったら上の建物が危なくないのか?と誰でも思う。
その答えが下の写真。

トゥーフォと呼ばれる凝灰岩の台地は、掘りやすいがゆえに崩落の危険も大きいのでこうやって巨大な柱で支えているのである。
実際、市内の多くの穴は現在埋め戻されている。
また、この洞窟は現代に発見されたときにはゴミや瓦礫でいっぱいになっていて、すぐとなりに上部までいっぱいになった穴が見えていた。これなら「埋め戻す」よりも、掘らなければ大丈夫?
*
今回もぐったオルビエートの地下通路は、我々が巡った場所で最大地下四階程度。トルコ中部にあるカッパドキアの地下都市のような深さはない。
そして、それぞれが連結した「都市」としての役割を持っているわけではないようである。ゆえに「地下都市」と表現している本もあるが、表現として妥当ではないように思う。
冒頭の地下道地図を見ても、赤い地下道はそれぞれ独立して存在いるのが分かる。
オルビエートの地下通路は、カッパドキアのような地下都市ではなく、フランスのシャンパーニュにあるカーヴのような機能を持ったこともなく(第一次大戦時のランス周辺では都市ごと地下のワインカーヴへ避難したことがあった。ここオルビエートの洞窟も第二次大戦時には避難壕としてつかわれた場所はあったが、規模も運用も違いすぎる)、ジブラルラルやルクセンブルグのように大砲をすえつけて軍事的に利用した場所でもなかった。
それは、オルビエートに暮らす人々がエトルリアの昔から現代に至るまで共通した悩み=水の供給に必要な方法として考え出した知恵だったのである。
- フランチェスコ大聖堂のテラスより
-
エリア:
- ヨーロッパ>イタリア>アッシジ
- テーマ:街中・建物・景色 世界遺産 歴史・文化・芸術
- 投稿日:2010/09/21 01:04
- コメント(0)
アッシジの聖フランチェスコ大聖堂の奥、修道院部分のテラス回廊。
通常の大人数ではなかなか入れてもらう事が出来ない場所だが、今回ご一緒したお二人のたってのご希望により神父さんにお願いできた。

観光客のざわめきから隔絶された、ウンブリアの平原を見張らせる静かな空間。

アジア人の顔をした修道士の方があったので話しかけてみると、中国語がかえってきた。
アッシジの町の全体を遠くから見ると、その左端に圧倒的な大きさを見せているフランチェスコ大聖堂。 下の写真で見える長いテラスのいちばん左部分に入れていただいたという事。

ここは、一般の方でもそれ相応の理由を申告できれば、何ヶ月かは修道僧生活をさせていただけるのだそうだ。

少し教会側に戻り、大聖堂すぐ下にある修道院の回廊部分。

回廊から見上げる、大聖堂の「上の教会」の後陣部分。

☆上の教会の出口をでたところにある「T=タウ」の文字と「PAX=平和」の植え込み。この「タウ」の文字はフランチェスコ会のシンボルだけれど、それが何故シンボルとなっているのか、地元の詳しいガイドさんからはじめて説明してもらう事ができた。

ここで「タウ」はギリシャ・アルファベットでは、ない。
ヘブライ文字としての「タウ」である。
同じに見えるこの二つ「タウ」はギリシャ語では十九番目のアルファベットだが、ヘブライ語では最後の文字となる。
『我先に救いを求めるのが人というものだが、私は神に救われる最後の人間でよい』そういうフランチェスコの謙譲の気持ちを象徴しているのだ。
**
この日の小松の動き
終日徒歩でのアッシジ観光を企画。
朝9時、アッシジのコムーネ広場すぐ近くのホテルよりスタート。
聖ルフィーノ大聖堂を見学。
フランチェスコが洗礼をうけた洗礼盤があるが、これはフランチェスコの時代にはマジョーレ教会にあったものである。
町の上の方にある円形劇場跡へ。
この遺構を利用しその上に造られたフランチェスコ派の修道院だった建物を改装してNUN SPA MUSEUMというのが出来ている。それが、今回紹介した施設。この名前をきいただけでは実際どんな施設なのか想像がつかない。
ベテランの地元ガイド氏が中の遺跡を案内しようと交渉してくれてはじめて内部の様子がわかった。
ここはホテルやレストランも併設されていて(SPAが併設されている、と言うのが適切なのかもしれませんが)、こちらも見学する事ができた。
それで、同日夕方のこの「入浴」を決めたのである。
レストランで出された食事も秀逸で、これもまた別の日に紹介したい。
再び下へ降りて、聖キアラ聖堂見学。ここはフランチェスコが生きていた頃には聖ジョルジョ教会という別の小さな教会があった。フランチェスコが死後すぐに葬られた場所だが、その面影はどこにあるのだろう。
さらに町の下のほうへ降りていく。
フランチェスコの最初の弟子ベルナルド・クィンタヴァッレの家の前を通り、サン・ピエトロ教会へ至る。
この教会はフランチェスコを助けたベネディクト会に今も属している。建物は13世紀のまま現代に残された貴重なもの。
内部には以前は入った事があったが、今回地元ガイド氏に教えられてはじめて知ったことがある。主祭壇の真上に丸い穴が開いているのだ。これは採光のためだろうけれど、実におもしろい。ちょっと古代の雰囲気・あのパンテオンを思い出してしまうのは小松だけだろうか。
近くで軽くピッツァの昼食。
いよいよサンフランチェスコ大聖堂へ入る。
上の教会のジォットとその弟子作のフランチェスコの生涯を描いたフレスコ画が有名だが、小松はむしろ下の教会のフレスコ画の方に面白さを感じる。
特にシモーネ・マルティーニの描いた聖マルタンの生涯が面白い。
ガイド氏はそこを通り過ぎようとしたので、「行きましょう」とひきとどめる。たくさんある見所からどれを選ぶかは、ガイドによって違うのである。
下の聖堂の奥まで来た時、ガイド氏が修道士に話をしてくれて僧坊のある回廊へ入れてもらうことが出来た。団体では絶対入れてくれない。
観光客のざわめきから隔絶された静かな空間。暗い聖堂からウンブリアの平原を見渡せる明るい回廊へ出た時、こここそがフランチェスコ大聖堂の精神性を感じさせてくれる場所だと思えた。
しばらくの後、再び大聖堂へ戻り、今度は上の教会へ入る。ジォットの作品群は何度も見ているが、やはり時代を動かしていった職人だった事が分かる。
上の教会を出てホテルへ戻ったのは16時前。
今日の夕方のスパの為に水着を買いに行ったり。
18時にオープンするSPAの後、20時スタートのレストランへ。
お客は我々だけだったので、「まだ新しいから閑古鳥なのかなぁ」と思っていたら、21時半をまわったぐらいにはすべての席が埋まっていた。
料理は最高。
値段もリーズナブル。
お客は観光客のように見える人はおらず、地元のビジネスユーズという雰囲気であった。
夕食がおわったのは22時半。
日本人にはこの時間はきびしいかもしれないが、是非また行ってみたいレストランである。
通常の大人数ではなかなか入れてもらう事が出来ない場所だが、今回ご一緒したお二人のたってのご希望により神父さんにお願いできた。

観光客のざわめきから隔絶された、ウンブリアの平原を見張らせる静かな空間。

アジア人の顔をした修道士の方があったので話しかけてみると、中国語がかえってきた。
アッシジの町の全体を遠くから見ると、その左端に圧倒的な大きさを見せているフランチェスコ大聖堂。 下の写真で見える長いテラスのいちばん左部分に入れていただいたという事。

ここは、一般の方でもそれ相応の理由を申告できれば、何ヶ月かは修道僧生活をさせていただけるのだそうだ。

少し教会側に戻り、大聖堂すぐ下にある修道院の回廊部分。

回廊から見上げる、大聖堂の「上の教会」の後陣部分。

☆上の教会の出口をでたところにある「T=タウ」の文字と「PAX=平和」の植え込み。この「タウ」の文字はフランチェスコ会のシンボルだけれど、それが何故シンボルとなっているのか、地元の詳しいガイドさんからはじめて説明してもらう事ができた。

ここで「タウ」はギリシャ・アルファベットでは、ない。
ヘブライ文字としての「タウ」である。
同じに見えるこの二つ「タウ」はギリシャ語では十九番目のアルファベットだが、ヘブライ語では最後の文字となる。
『我先に救いを求めるのが人というものだが、私は神に救われる最後の人間でよい』そういうフランチェスコの謙譲の気持ちを象徴しているのだ。
**
この日の小松の動き
終日徒歩でのアッシジ観光を企画。
朝9時、アッシジのコムーネ広場すぐ近くのホテルよりスタート。
聖ルフィーノ大聖堂を見学。
フランチェスコが洗礼をうけた洗礼盤があるが、これはフランチェスコの時代にはマジョーレ教会にあったものである。
町の上の方にある円形劇場跡へ。
この遺構を利用しその上に造られたフランチェスコ派の修道院だった建物を改装してNUN SPA MUSEUMというのが出来ている。それが、今回紹介した施設。この名前をきいただけでは実際どんな施設なのか想像がつかない。
ベテランの地元ガイド氏が中の遺跡を案内しようと交渉してくれてはじめて内部の様子がわかった。
ここはホテルやレストランも併設されていて(SPAが併設されている、と言うのが適切なのかもしれませんが)、こちらも見学する事ができた。
それで、同日夕方のこの「入浴」を決めたのである。
レストランで出された食事も秀逸で、これもまた別の日に紹介したい。
再び下へ降りて、聖キアラ聖堂見学。ここはフランチェスコが生きていた頃には聖ジョルジョ教会という別の小さな教会があった。フランチェスコが死後すぐに葬られた場所だが、その面影はどこにあるのだろう。
さらに町の下のほうへ降りていく。
フランチェスコの最初の弟子ベルナルド・クィンタヴァッレの家の前を通り、サン・ピエトロ教会へ至る。
この教会はフランチェスコを助けたベネディクト会に今も属している。建物は13世紀のまま現代に残された貴重なもの。
内部には以前は入った事があったが、今回地元ガイド氏に教えられてはじめて知ったことがある。主祭壇の真上に丸い穴が開いているのだ。これは採光のためだろうけれど、実におもしろい。ちょっと古代の雰囲気・あのパンテオンを思い出してしまうのは小松だけだろうか。
近くで軽くピッツァの昼食。
いよいよサンフランチェスコ大聖堂へ入る。
上の教会のジォットとその弟子作のフランチェスコの生涯を描いたフレスコ画が有名だが、小松はむしろ下の教会のフレスコ画の方に面白さを感じる。
特にシモーネ・マルティーニの描いた聖マルタンの生涯が面白い。
ガイド氏はそこを通り過ぎようとしたので、「行きましょう」とひきとどめる。たくさんある見所からどれを選ぶかは、ガイドによって違うのである。
下の聖堂の奥まで来た時、ガイド氏が修道士に話をしてくれて僧坊のある回廊へ入れてもらうことが出来た。団体では絶対入れてくれない。
観光客のざわめきから隔絶された静かな空間。暗い聖堂からウンブリアの平原を見渡せる明るい回廊へ出た時、こここそがフランチェスコ大聖堂の精神性を感じさせてくれる場所だと思えた。
しばらくの後、再び大聖堂へ戻り、今度は上の教会へ入る。ジォットの作品群は何度も見ているが、やはり時代を動かしていった職人だった事が分かる。
上の教会を出てホテルへ戻ったのは16時前。
今日の夕方のスパの為に水着を買いに行ったり。
18時にオープンするSPAの後、20時スタートのレストランへ。
お客は我々だけだったので、「まだ新しいから閑古鳥なのかなぁ」と思っていたら、21時半をまわったぐらいにはすべての席が埋まっていた。
料理は最高。
値段もリーズナブル。
お客は観光客のように見える人はおらず、地元のビジネスユーズという雰囲気であった。
夕食がおわったのは22時半。
日本人にはこの時間はきびしいかもしれないが、是非また行ってみたいレストランである。
21 - 24件目まで(24件中)