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- 2015 キプロス視察
-
エリア:
- 中近東>キプロス
- テーマ:観光地 世界遺産 歴史・文化・芸術
- 投稿日:2016/01/02 10:12
- コメント(0)
2015年11月、キプロス島を8日間視察。主要観光地とホテルやレストランを多数見学した。
トルコやイスラエルに近い南北に分断された国ということで、日本人には「危険な場所?」とのイメージを持つ人も多いけれど、2015年末現在まったく平和な雰囲気。世界中から年間250万人の人々が訪れる平和な地中海の島であります。日本人はまだ年間千人ほど。その魅力を少しでもお伝えしたいと思います。
★全14項目を写真と文章の日記にして、下記に載せてあります
http://komatsusin.jimdo.com/これまでの-手造の旅/ヨーロッパ/11-22-29キプロス視察/
首都ニコシアは星形をした城塞都市だが、ど真ん中に「グリーンライン」が走り、分断されている。
国全体がこの「グリーンライン」によって分断され、北がトルコ系、南がギリシャ系、と、わかれて住んでいる。
軍事紛争があった1974年ごろと、今は大きく状況が変わり、下の写真の場所にあった「ニコシアの壁」は撤去された。観光客だけでなく、市民も、身分証明書を見せるだけで自由に行き来できる南で働く労働者だけでなく、北のトルコ側から南の大学に通うこともできる。
南ニコシアにある高層ホテルの最上階展望台から
**
西海岸の古都パフォスにある遺跡「貴族の墓」は、紀元前三世紀ごろからのものとされる。

レースで有名なレフカラ村は世界遺産に指定された

この村の名物料理TAVASはお米と具を層にして土鍋で焼いたもの

**
イギリス軍基地内にある北への検問所

北キプロスのファマゴスタ大聖堂は、現在モスクとして使われている

南部海岸にあるコロンビア・ビーチリゾート

キプロスには手ごろでレベルの高いリゾートホテルがたくさんある
キプロス島は、ギリシャ神話で生まれたばかりのヴィーナスが流れ着いた島とされている。島には古代にいくつものヴィーナス神殿があり、たくさんのヴィーナス像が発掘されている。下のものはニコシアの考古学博物館にある代表的なひとつ。
トルコやイスラエルに近い南北に分断された国ということで、日本人には「危険な場所?」とのイメージを持つ人も多いけれど、2015年末現在まったく平和な雰囲気。世界中から年間250万人の人々が訪れる平和な地中海の島であります。日本人はまだ年間千人ほど。その魅力を少しでもお伝えしたいと思います。
★全14項目を写真と文章の日記にして、下記に載せてあります
http://komatsusin.jimdo.com/これまでの-手造の旅/ヨーロッパ/11-22-29キプロス視察/
首都ニコシアは星形をした城塞都市だが、ど真ん中に「グリーンライン」が走り、分断されている。

軍事紛争があった1974年ごろと、今は大きく状況が変わり、下の写真の場所にあった「ニコシアの壁」は撤去された。観光客だけでなく、市民も、身分証明書を見せるだけで自由に行き来できる南で働く労働者だけでなく、北のトルコ側から南の大学に通うこともできる。

南ニコシアにある高層ホテルの最上階展望台から

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西海岸の古都パフォスにある遺跡「貴族の墓」は、紀元前三世紀ごろからのものとされる。

レースで有名なレフカラ村は世界遺産に指定された

この村の名物料理TAVASはお米と具を層にして土鍋で焼いたもの

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イギリス軍基地内にある北への検問所

北キプロスのファマゴスタ大聖堂は、現在モスクとして使われている

南部海岸にあるコロンビア・ビーチリゾート

キプロスには手ごろでレベルの高いリゾートホテルがたくさんある
キプロス島は、ギリシャ神話で生まれたばかりのヴィーナスが流れ着いた島とされている。島には古代にいくつものヴィーナス神殿があり、たくさんのヴィーナス像が発掘されている。下のものはニコシアの考古学博物館にある代表的なひとつ。

- アヴィラのサンヴィセンテ教会
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エリア:
- ヨーロッパ>スペイン>アビラ
- テーマ:観光地 街中・建物・景色 歴史・文化・芸術
- 投稿日:2015/04/25 11:20
- コメント(0)
マドリッドから北西に一時間半、中世の城壁が見事に残るアヴィラ。

この町で必見のロマネスク教会はサン・ヴィセンテだろう。
城壁のすぐ外に位置している。その理由は、城壁のすぐ外で処刑が行われていたからだ。

西暦4世紀はじめ(ディオクレティアヌスが303年に出したキリスト教徒への迫害令の時と言われる)、聖ヴィセンテとサビーナとクリステタの二人の妹がここで殉教した。正確なその場所は教会の奥・アプスの南側部分の地下に今も残る岩場だったとされている。
最初の小さな礼拝堂、その後の最初の教会はアラブ時代を経て荒れ果てていた。
12世紀後半、アヴィラ生まれのペドロ・デ・バルコという聖者の遺体をまつる場所を決めるとき、聖者の遺体を引く目隠ししたロバが、この教会にたどり着いて死んだ。この事から現在見られる大規模な教会へ改修されたのだという伝説。
三角の破風は13世紀に形成された、建物で一番新しい部分。

南側には列柱のポータルがあるが、これは巡礼たちのための場所か。新しい時代に設置されたもののように見える。

南側の門。シンプルなロマネスクのアーチの下に数体の彫刻がある。

向かって左側に、対話するような受胎告知

向かって右側「ダビデ王と聖女サビーナ」と題されている二体。
左のダビデ王は、実はアラブ人の手からこの町を取り戻したアルフォンソ六世の姿をうつし、その隣にすっくと立つ女性は聖女の姿を借りて後継者となった娘・ウラカの姿を彫ったと言われている。
西側のファサード

フランス南部のロマネスク教会と同じ雰囲気を感じさせる。


内部、奥右手にある、これぞ必見のロマネスクの記念棺。

上部は15世紀の木製装飾天蓋だが、下の石の部分は12世紀の末(=日本の平安の終わりから鎌倉時代にかけて)に製作されたもの。
これだけ美しく彩色が残っているものは、そうは多くない。



側面の彫刻を四つの場面に区切って紹介いたします
★聖ビセンテの生涯、その1
左:ディオクレティアヌスの前に引き出されるヴィセンテ

中:ジュピターへの礼拝を拒否するヴィセンテ
右の兵士が彼を動かそうとがんばっている。左の兵士がヴィセンテの足元が石のように固くなっている?のを指さしている=意志の強さを表す?
右:二人の妹がヴィセンテを訪ねてくる
★聖ヴィセンテの生涯 その2
左の王に報告する兵士、馬に乗せられる聖ヴィセンテと妹ふたりが右方向へひかれてゆく

★聖ヴィセンテの生涯 その3
左:着衣を脱がされる三人、
中:処刑される三人
右:頭をつぶされる三人(この図で赤い服を着ているのがユダヤ人エゼキエル。ヴィセンテを告発した人物とされている)

★聖ヴィセンテの生涯 その4
左:三人の遺体から巨大な蛇が現れ、エゼキエルに絡みつく。
エゼキエルは回心して神に祈りをささげる。
※大蛇は城外に晒された三人の遺体を野獣から守っていた
右:エゼキエルは三人の墓をつくる

現代の我々が見てもそのまま分かりやすく、力強い表現の彫刻であります。

この町で必見のロマネスク教会はサン・ヴィセンテだろう。
城壁のすぐ外に位置している。その理由は、城壁のすぐ外で処刑が行われていたからだ。

西暦4世紀はじめ(ディオクレティアヌスが303年に出したキリスト教徒への迫害令の時と言われる)、聖ヴィセンテとサビーナとクリステタの二人の妹がここで殉教した。正確なその場所は教会の奥・アプスの南側部分の地下に今も残る岩場だったとされている。
最初の小さな礼拝堂、その後の最初の教会はアラブ時代を経て荒れ果てていた。
12世紀後半、アヴィラ生まれのペドロ・デ・バルコという聖者の遺体をまつる場所を決めるとき、聖者の遺体を引く目隠ししたロバが、この教会にたどり着いて死んだ。この事から現在見られる大規模な教会へ改修されたのだという伝説。
三角の破風は13世紀に形成された、建物で一番新しい部分。

南側には列柱のポータルがあるが、これは巡礼たちのための場所か。新しい時代に設置されたもののように見える。

南側の門。シンプルなロマネスクのアーチの下に数体の彫刻がある。

向かって左側に、対話するような受胎告知

向かって右側「ダビデ王と聖女サビーナ」と題されている二体。
左のダビデ王は、実はアラブ人の手からこの町を取り戻したアルフォンソ六世の姿をうつし、その隣にすっくと立つ女性は聖女の姿を借りて後継者となった娘・ウラカの姿を彫ったと言われている。

西側のファサード

フランス南部のロマネスク教会と同じ雰囲気を感じさせる。


内部、奥右手にある、これぞ必見のロマネスクの記念棺。

上部は15世紀の木製装飾天蓋だが、下の石の部分は12世紀の末(=日本の平安の終わりから鎌倉時代にかけて)に製作されたもの。
これだけ美しく彩色が残っているものは、そうは多くない。



側面の彫刻を四つの場面に区切って紹介いたします
★聖ビセンテの生涯、その1
左:ディオクレティアヌスの前に引き出されるヴィセンテ

中:ジュピターへの礼拝を拒否するヴィセンテ
右の兵士が彼を動かそうとがんばっている。左の兵士がヴィセンテの足元が石のように固くなっている?のを指さしている=意志の強さを表す?
右:二人の妹がヴィセンテを訪ねてくる
★聖ヴィセンテの生涯 その2
左の王に報告する兵士、馬に乗せられる聖ヴィセンテと妹ふたりが右方向へひかれてゆく

★聖ヴィセンテの生涯 その3
左:着衣を脱がされる三人、
中:処刑される三人
右:頭をつぶされる三人(この図で赤い服を着ているのがユダヤ人エゼキエル。ヴィセンテを告発した人物とされている)

★聖ヴィセンテの生涯 その4
左:三人の遺体から巨大な蛇が現れ、エゼキエルに絡みつく。
エゼキエルは回心して神に祈りをささげる。
※大蛇は城外に晒された三人の遺体を野獣から守っていた
右:エゼキエルは三人の墓をつくる

現代の我々が見てもそのまま分かりやすく、力強い表現の彫刻であります。
- パルマ、コレッジョが描いた二つのドーム天井、パルミジャニーノは見ていただろう
-
エリア:
- ヨーロッパ>イタリア>パルマ
- テーマ:観光地 歴史・文化・芸術
- 投稿日:2014/10/26 23:16
- コメント(0)
イタリア、中北部の町パルマはハムやチーズが有名だが、町自体も訪れる価値がある。
大聖堂付属の八角形のロマネスク様式の八角形の洗礼堂が路地の向こうにみえた。これは12世紀末から13世紀はじめにかけてつくられた当時のかたちを今に伝えている。
鐘楼は昨年から修復がまだ終わらないようだ。
むこうに見える大聖堂本体はあとで入ることにして、まずは洗礼堂へ
入口のティンパヌムに刻まれた彫刻がおもしろい。下のものは、左が太陽で右が月を表しているようだが、まるでギリシャ神話の太陽神アポロが馬車を走らせているようだ
この洗礼堂は入場料をとるだけのものである。入るとその豊かな装飾に目を奪われる。
天上のフレスコは14世紀ごろと思われる。
壁のフレスコ画も天上より百年ほどあとのものと推察されるそうな

ティンパヌムのひとつに13世紀初めの聖家族エジプトへの旅の彩色彫刻がある。星空を背景に進む聖家族と、それをいざなう現代的な羽をもった天使!
この美しい作品は洗礼堂が建設された当初からのもので13世紀初めのもの。フレスコ画よりずっと前からあったのだ。

**
外へ出て大聖堂のすぐ後ろに位置する「福音者ヨハネ教会」へ向かう。
途中で大聖堂の後陣外側がロマネスクの美しいふくらみを見せている。

「福音者ヨハネ教会」入口
この位置から右を見ると、こんな美しい門構えの店がある。ヨハネ教会付きの薬局であった建物

内部へ入り、十字架廊交差部にたってドームを仰ぎ見ると、コレッジョの傑作が見下ろしている。
コレッジョはパルマの近くのコレッジョ村出身だったのでこのあだ名で呼ばれるが本名はアントニオ・アレグリという。1489年頃の生まれとされる。
パルマへ出てきて修道院の一室の天井画を見事に仕上げたことによって、1519年に完成したばかりの、この福音者ヨハネ教会の仕事を得た。
最初に画いたのは小さなこのルネッタ。

これが気に入られ、次に注文を受けたのがこのドームの天井画

ここでは福音者ヨハネが黙示録の幻想を見ている場面が描かれている。

説教壇に立つ司教の位置からならば画面の端に座って幻想におののくヨハネが見えるというよく考えられた構図。
最後にアプス(教会一番奥の上部)に、「聖母マリアの戴冠」。

※この作品だけは1586年に教会の改修工事の時に壊され、現在はそのあとに模写された作品となっている。本物も一部だけ美術館に保存されている。
コレッジョがこれらのフレスコ画を描いているのを、十四、五才年下の少年が見ていたはずだ。パルマ出身なので後にパルミジャニーノと呼ばれることなるジローラモ・フランチェスコ・マリア・マッツォーラは、別の師匠が受けて途中になっていた礼拝堂の一つを仕上げていた。
教会にはいってすぐ左にある礼拝堂の入り口アーチの部分がそれ。

この天使のお尻を描いたとき、マルミジャニーノはたった十五六歳だったと推察されている。
福音者ヨハネ教会の仕事は街で評判になっていったらしく、コレッジョは街を代表する大聖堂の天井画も描くことになった。
今まで以上に気合を入れて、大きな大聖堂のドームにたくさんの人物を描き込む構図にした。「聖母マリアの昇天」だが、中央は天からマリアを迎えに降りてくるキリスト。

大好きなマンテーニャゆずりの短縮法をもちいた群像でいっぱい。渦巻くような雲が実際以上にドームを高く見せている。

現代ではコレッジョの「傑作」のひとつに数えられているのだが・・・大聖堂はこの作品の仕上がりを見て、その他の部分を描く契約を破棄してしまった。
現在大聖堂はフレスコで埋め尽くされているが、これらを描いたのはコレッジョではない。

★大聖堂側の言い分「足ばかりが天井に飛び交っていて、肝心のマリアがどこにいるのか探さないとわからない。降りてくるキリストも足ばかりで顔が見えない」
・・・小松も、大聖堂側の言い分、もっともだと思う。
いかに絵画的に優れていると現代の美術研究家が賞賛しようと、教会を使う司祭や一般の人々にははっきり分かりやすい図像のである方が重要なはずだ。
コレッジョが描いた二つのドームの絵。
ガイドブックや美術書の記述に惑わされず、自分自身でどちらがこの場にふさわしいかを判断してほしい。
絵画に限らず、どんなに「すばらしい」と言われる作品でも、置かれている場所に合っていなければ、その価値を発揮できないのである。
大聖堂付属の八角形のロマネスク様式の八角形の洗礼堂が路地の向こうにみえた。これは12世紀末から13世紀はじめにかけてつくられた当時のかたちを今に伝えている。



入口のティンパヌムに刻まれた彫刻がおもしろい。下のものは、左が太陽で右が月を表しているようだが、まるでギリシャ神話の太陽神アポロが馬車を走らせているようだ




ティンパヌムのひとつに13世紀初めの聖家族エジプトへの旅の彩色彫刻がある。星空を背景に進む聖家族と、それをいざなう現代的な羽をもった天使!
この美しい作品は洗礼堂が建設された当初からのもので13世紀初めのもの。フレスコ画よりずっと前からあったのだ。

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外へ出て大聖堂のすぐ後ろに位置する「福音者ヨハネ教会」へ向かう。
途中で大聖堂の後陣外側がロマネスクの美しいふくらみを見せている。

「福音者ヨハネ教会」入口

この位置から右を見ると、こんな美しい門構えの店がある。ヨハネ教会付きの薬局であった建物

内部へ入り、十字架廊交差部にたってドームを仰ぎ見ると、コレッジョの傑作が見下ろしている。
コレッジョはパルマの近くのコレッジョ村出身だったのでこのあだ名で呼ばれるが本名はアントニオ・アレグリという。1489年頃の生まれとされる。
パルマへ出てきて修道院の一室の天井画を見事に仕上げたことによって、1519年に完成したばかりの、この福音者ヨハネ教会の仕事を得た。
最初に画いたのは小さなこのルネッタ。

これが気に入られ、次に注文を受けたのがこのドームの天井画

ここでは福音者ヨハネが黙示録の幻想を見ている場面が描かれている。

説教壇に立つ司教の位置からならば画面の端に座って幻想におののくヨハネが見えるというよく考えられた構図。
最後にアプス(教会一番奥の上部)に、「聖母マリアの戴冠」。

※この作品だけは1586年に教会の改修工事の時に壊され、現在はそのあとに模写された作品となっている。本物も一部だけ美術館に保存されている。
コレッジョがこれらのフレスコ画を描いているのを、十四、五才年下の少年が見ていたはずだ。パルマ出身なので後にパルミジャニーノと呼ばれることなるジローラモ・フランチェスコ・マリア・マッツォーラは、別の師匠が受けて途中になっていた礼拝堂の一つを仕上げていた。
教会にはいってすぐ左にある礼拝堂の入り口アーチの部分がそれ。

この天使のお尻を描いたとき、マルミジャニーノはたった十五六歳だったと推察されている。
福音者ヨハネ教会の仕事は街で評判になっていったらしく、コレッジョは街を代表する大聖堂の天井画も描くことになった。
今まで以上に気合を入れて、大きな大聖堂のドームにたくさんの人物を描き込む構図にした。「聖母マリアの昇天」だが、中央は天からマリアを迎えに降りてくるキリスト。

大好きなマンテーニャゆずりの短縮法をもちいた群像でいっぱい。渦巻くような雲が実際以上にドームを高く見せている。

現代ではコレッジョの「傑作」のひとつに数えられているのだが・・・大聖堂はこの作品の仕上がりを見て、その他の部分を描く契約を破棄してしまった。
現在大聖堂はフレスコで埋め尽くされているが、これらを描いたのはコレッジョではない。

★大聖堂側の言い分「足ばかりが天井に飛び交っていて、肝心のマリアがどこにいるのか探さないとわからない。降りてくるキリストも足ばかりで顔が見えない」
・・・小松も、大聖堂側の言い分、もっともだと思う。
いかに絵画的に優れていると現代の美術研究家が賞賛しようと、教会を使う司祭や一般の人々にははっきり分かりやすい図像のである方が重要なはずだ。
コレッジョが描いた二つのドームの絵。
ガイドブックや美術書の記述に惑わされず、自分自身でどちらがこの場にふさわしいかを判断してほしい。
絵画に限らず、どんなに「すばらしい」と言われる作品でも、置かれている場所に合っていなければ、その価値を発揮できないのである。
- イギリス海軍のポーツマスを見学
-
エリア:
- ヨーロッパ>イギリス>イギリスその他の都市
- テーマ:観光地 街中・建物・景色 歴史・文化・芸術
- 投稿日:2014/01/23 11:07
- コメント(0)
ロンドンから列車で二時間ほど、英仏海峡に面したポーツマスはイギリス軍の歴史的本拠地である。
ナポレオンのイギリス侵攻の野望を打ち砕いたトラファルガー海戦の旗艦HMSヴィクトリー号は現在でもこの港を母港とする現役戦艦として登録されている。

海戦には勝利したが、甲板で狙撃されて落命したネルソン提督の像
片目片腕であります。
※HMSヴィクトリー号の写真日記は下記からご覧ください↓
http://blog.goo.ne.jp/komatsusin/e/9a3616c6529170dd4ad3db07b31746b8
ドックヤードは巨大な博物館となっており、見学できる船は全部で三隻。
1860年に世界初の鉄の船として建造されたウォーリアー号にも乗船できる

もうひとつの見学できる船は、16世紀にポーツマス港内で沈没したメアリー・ローズ号。1982年に引き上げられ、たいへん興味深い品々が見つかった。
こちらについては下記の日記からごらんください↓
http://blog.goo.ne.jp/komatsusin/e/9a3616c6529170dd4ad3db07b31746b8
★これら軍港の博物館、全部に入場できる共通券は2014年1月現在26ポンド。一年間有効だそうです。
**
ポーツマス・ハーバー駅から軍港と逆の方に、2005年に完成したスピネーカータワーがそびえている

真後ろが入口

駅からはこのガード下をくぐってアクセス
「ガンワーフ・キー」というのがその再開発エリアの名前だ。
ガードをくぐるとショッピングエリア。ロンドンから遠いのでアウトレットショップがたくさんならぶ。マークス・アンド・スペンサーもあります。

レストランも豊富で、海辺はこんな

高さ170mのスピネーカータワーに上ると、ポーツマスの街からドックヤードまで一望できる


フランスと結ぶフェリーが入港してくる。

展望台の真ん中にはガラスの床が開けられている
土足厳禁だそうな。
2014年1月のおだやかに晴れた午後だったが、夏場はきっとたくさんの人でにぎわっているにちがいない。
昨年夏にプリマスからフランスのブルターニュへの船を使った《手造の旅》を催行したけれど、ポーツマスも面白そうです。

※日露戦争の終結として有名なポーツマス条約が結ばれたのは、アメリカ東海岸にある同名の都市です。
ナポレオンのイギリス侵攻の野望を打ち砕いたトラファルガー海戦の旗艦HMSヴィクトリー号は現在でもこの港を母港とする現役戦艦として登録されている。

海戦には勝利したが、甲板で狙撃されて落命したネルソン提督の像

※HMSヴィクトリー号の写真日記は下記からご覧ください↓
http://blog.goo.ne.jp/komatsusin/e/9a3616c6529170dd4ad3db07b31746b8
ドックヤードは巨大な博物館となっており、見学できる船は全部で三隻。
1860年に世界初の鉄の船として建造されたウォーリアー号にも乗船できる

もうひとつの見学できる船は、16世紀にポーツマス港内で沈没したメアリー・ローズ号。1982年に引き上げられ、たいへん興味深い品々が見つかった。
こちらについては下記の日記からごらんください↓
http://blog.goo.ne.jp/komatsusin/e/9a3616c6529170dd4ad3db07b31746b8
★これら軍港の博物館、全部に入場できる共通券は2014年1月現在26ポンド。一年間有効だそうです。
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ポーツマス・ハーバー駅から軍港と逆の方に、2005年に完成したスピネーカータワーがそびえている

真後ろが入口

駅からはこのガード下をくぐってアクセス

ガードをくぐるとショッピングエリア。ロンドンから遠いのでアウトレットショップがたくさんならぶ。マークス・アンド・スペンサーもあります。

レストランも豊富で、海辺はこんな

高さ170mのスピネーカータワーに上ると、ポーツマスの街からドックヤードまで一望できる


フランスと結ぶフェリーが入港してくる。

展望台の真ん中にはガラスの床が開けられている

2014年1月のおだやかに晴れた午後だったが、夏場はきっとたくさんの人でにぎわっているにちがいない。
昨年夏にプリマスからフランスのブルターニュへの船を使った《手造の旅》を催行したけれど、ポーツマスも面白そうです。

※日露戦争の終結として有名なポーツマス条約が結ばれたのは、アメリカ東海岸にある同名の都市です。
- ボローニャにある聖ドメニコの墓
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エリア:
- ヨーロッパ>イタリア>ボローニャ
- テーマ:観光地 その他 歴史・文化・芸術
- 投稿日:2013/12/22 13:12
- コメント(0)
アッシジの聖フランチェスコとほぼ同じ時代を生きた聖ドメニコ。
元もと今のスペインで生まれた彼だが、1221年にボローニャで亡くなり、そこで葬られた。
旧市街にあるドメニコ・マジョーレ教会がその場所である。

入口には後の時代に描かれたドメニコの誕生にまつわる逸話が描かれている。

母親は、胎内のドメニコが白黒の犬が松明を加えて現れて闇を照らす夢を見た。彼が世界を照らす存在になるという予言である。
ドメニコ会の衣は今でも白と黒。
※このモザイク画の右下にはボローニャの斜塔が描かれている。
石棺は見事な彫刻で飾られている。

もともとは尖塔や独立した彫刻はなく、浮彫で飾られた石棺だけを、その時代最高のマエストロだったニコラ・ピサーノが制作した。
当初、石棺は現在の場所ではなく、堂のど真ん中に柱を立ててその上に安置されていた。かつてあった場所がこの×印によって記憶されている。

石棺以外の装飾が追加されたのは15世紀半ば、ルネサンスの彫刻家ニコロ・デラルカによる。

そして、若きミケランジェロもここにその足跡を残している。
なるほど天使でも筋肉隆々ですね。

この像は後の彼の代表作となるダビデを思い出させる。

ミケランジェロはそのスタートからすでにミケランジェロだったのだ。
石棺の上のクーポラには、ボローニャ出身の画家グイド・レーニ「聖ドメニコの昇天」がフレスコ画を描いている。

レーニ自身の墓もすぐ近くにある。

**
ドメニコ教会には、神聖ローマ皇帝フリードリッヒ(フェデリコ)二世に最も愛された息子エンツォの墓があった。それを記念したプレートがこれ。

二十代後半にボローニャに捕えられ、その後の二十年以上の年月をこの宮殿で軟禁されていた。

虜囚とはいえ王侯として遇され、市民は彼の詠じる詩に耳を傾け敬意をあらわした。ここは現在でも「エンツォ宮殿」と呼ばれているのである。
元もと今のスペインで生まれた彼だが、1221年にボローニャで亡くなり、そこで葬られた。
旧市街にあるドメニコ・マジョーレ教会がその場所である。

入口には後の時代に描かれたドメニコの誕生にまつわる逸話が描かれている。

母親は、胎内のドメニコが白黒の犬が松明を加えて現れて闇を照らす夢を見た。彼が世界を照らす存在になるという予言である。
ドメニコ会の衣は今でも白と黒。
※このモザイク画の右下にはボローニャの斜塔が描かれている。
石棺は見事な彫刻で飾られている。

もともとは尖塔や独立した彫刻はなく、浮彫で飾られた石棺だけを、その時代最高のマエストロだったニコラ・ピサーノが制作した。
当初、石棺は現在の場所ではなく、堂のど真ん中に柱を立ててその上に安置されていた。かつてあった場所がこの×印によって記憶されている。

石棺以外の装飾が追加されたのは15世紀半ば、ルネサンスの彫刻家ニコロ・デラルカによる。

そして、若きミケランジェロもここにその足跡を残している。
なるほど天使でも筋肉隆々ですね。

この像は後の彼の代表作となるダビデを思い出させる。

ミケランジェロはそのスタートからすでにミケランジェロだったのだ。
石棺の上のクーポラには、ボローニャ出身の画家グイド・レーニ「聖ドメニコの昇天」がフレスコ画を描いている。

レーニ自身の墓もすぐ近くにある。

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ドメニコ教会には、神聖ローマ皇帝フリードリッヒ(フェデリコ)二世に最も愛された息子エンツォの墓があった。それを記念したプレートがこれ。

二十代後半にボローニャに捕えられ、その後の二十年以上の年月をこの宮殿で軟禁されていた。

虜囚とはいえ王侯として遇され、市民は彼の詠じる詩に耳を傾け敬意をあらわした。ここは現在でも「エンツォ宮殿」と呼ばれているのである。
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